「お母さんみたいなお父さん」淀川長治 おすぎ 聞けなかった遺言

 私と淀川さんがお話するようになったのは、私とピーコが海のものとも山のものともつかない、三十何年前ね。たまたまユニバーサル映画の試写室で、淀川さんの隣に座ったんです。映画が始まったら、私の口の中にチョコレートを入れてくださるの。ビックリしちゃって、見た映画も、その後のお話も全然覚えてない。それから私は直弟子のようになりました。

 私は「淀川の母」って呼んでたんです。私が「母」って言うと、「こんな汚い娘を持った覚えはない」とか言うのよ(笑い)。でも風邪をひけば、「お弁当持ってきて」って電話があって、淀川さんの好きなうなぎ入りのお弁当を作りました。ちゃんと専用の鎌倉彫のお弁当箱を用意しておいてね。

 淀川さんは、すごくいい人だと思われてるけど、私にはイジワルでケチでした(笑い)。映画見るときは厳しくて、私なんかいつも、「ばかだね、お嬢ちゃんだね」って言われてた。

 だいたい、つきあってから一度もおごってもらったことない。弟子におごらせるのが趣味なのね。

 でも、本質的にはすごくいい人なんですよ。ピーコが目の病気で眼球を取らなきゃいけなくなって、淀川さんに報告したら、「かわいそう、かわいそう。僕がなんでもしてあげる」って言って、ホント~にケチだった人が五万円包んでくれたの。で、ピーコは三カ月で復帰した。そしたら今度は、「困ったね」の連発なのよ。「なんでもしてあげるって言っちゃった」って。だからピーコが「そんなのいいのよ」って言ったら、「だったらこないだの五万円も返して」って。あれ、半分本気よ。(笑い)

 私が淀川さんに特別かわいがってもらったのは、私たちはカミングアウトしてたでしょ?私やピーコを見て、ああこの子たちがこんなふうに生きていく時代になったのか、ってうれしかったんじゃないかな。でも私は淀川さんの好みじゃなかった(笑い)。淀川さんはおデブちゃんが好き。もう、太った人見ると「何キロ?」って聞くんだから。

 淀川さんがいなくなって、映画評論をやめようかと思った時期もありました。でも、淀川さんの最後の言葉は「もっと映画を見なさい」だったの。本心は「もっと映画が見たい」だったと私は思う。その言葉を聞いて、淀川さんのように一生、映画館の勧誘員になろうと思い直しました。私は褒めるよりけなすことのほうが多いんですけどね。(談)

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