学園紛争でロックアウトを続けていた私立麻布学園。37日ぶりに生徒たちが登校、授業の予定を変更して全校集会が開かれた。立って話しているのは、山内一郎校長代行(撮影日/1971年11月13日、撮影場所/東京都港区の麻布学園、提供/朝日新聞社)
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 1971年11月15日、麻布中学校高等学校(以下「麻布」)で同校トップの校長代行、山内一郎(やまのうち・いちろう)氏が全校集会で辞任を表明した。

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 当時、山内校長代行(以下、「校長代行」。教員免許を持たないため「代行」と称した)はかなり強硬な教育方針を打ち出し、従わない生徒を退学処分にするなど厳しい管理体制を敷いた。それに対して多くの生徒、一部の教員が校長代行の退任、学園民主化などを求め、連日、集会が開かれるなど、授業が1カ月以上正常に行われない日々が続いた。ヘルメットをかぶった生徒が学校に突入し多くの逮捕者を出すなどの事態が起こっており、「麻布紛争」(または「第二次麻布学園紛争」)と呼ばれていた。麻布はこのころ、現在と同様、東京大学への合格者を多く出す進学校だった(1970年80人、71年84人、72年77人)。

 しかし、麻布紛争は、半世紀以上たった今日、学校関係者以外、ほとんど知られることはなく、歴史に埋もれようとしている。

 校長代行の辞任を求めた生徒たちの中に記録を残そうとする動きがあり、その中の高校3年生のメンバーが、経過をくわしくまとめた記録集『幕間(まくあい)のパントマイム』を1985年に刊行している。

 それから40年ほどたった2024年、同書は復刻されることになった。

『幕間のパントマイム』 左が1985年刊、右が2024年復刻版

 麻布紛争はのちの麻布中学高校の特色を形づくったといえる。半世紀以上前、なぜ麻布で紛争が起こったのか。『幕間のパントマイム』復刻版の仕掛け人である久保耕造さんと、著者の一人である星野英一さん(いずれも麻布1972年卒)に、同校の20年後輩となる教育ジャーナリストのおおたとしまささん(麻布1992年卒)が話を聞いた。

若い人に麻布紛争を伝えたい

おおた:私が1986年に麻布中学に入学したとき、『幕間のパントマイム』が全新入生に配られました。

久保:新入生への配布は、いま初めて知りました。

おおた:同書で麻布紛争を知りました。中学入学早々、この本を手にしたとき「メッセージ性があるすごいものを受け取った」と思いましたが、多くの生徒は関心がなかったようです。麻布紛争について先生からどんな話があったかは覚えていませんが、“校長代行が生徒をむちゃくちゃ抑圧して、退陣後、億単位の横領が発覚して捕まった”ということでしょうか。

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麻布紛争はなぜ起こったか