筑波大学附属駒場高校(筑駒)からは日銀総裁を2代続けて送り出した。ほぼ同じ時期に自衛隊のトップ(統合幕僚長)、警視総監、警察庁長官などが誕生している。一方、2022年、悠仁親王が入学したのが筑波大学附属高校(筑附)。なにかと話題になる筑駒と筑附、いったいどんな学校なのか。その成り立ち、出身者から両校の素顔を見てみよう。筑附を特集した前稿<筑波大附属を卒業した有名OBOGは? 野球で全国「ベスト4」「東大合格者日本一」…知られざる学校の歴史をひもとく>に続き、後編となる本稿では筑駒を紹介する。
【表】筑駒と筑附、歴代の東京大合格者数を比較(全4枚)筑駒はなぜ男子校なのか?
筑駒はどんな歴史を歩んだか。
1947年東京農業教育専門学校附属中学校、1950年東京教育大学東京農業教育専門学校附属高等学校として開学した。高校名は22文字。舌をかみそうだ。
まもなく東京教育大学附属駒場中学校・高校になる。「教駒」の誕生だ。
戦後、多くの教育機関で男女共学が進んだが、教駒は男子校でスタートし、今日に至る。筑駒はなぜ男子校なのか。学校史をひもとくと、男子校にはこんな事情があったことがわかる。学校史を少し長いが紹介しよう。
「大事なお嬢さんを学校としてあずかっても、まあ御手洗いの設備から、それから作法室のようなものから、そういった女子教育に必要な設備、施設というようなものは当時の学校の内幕ではとても整備できない。こんな状態で女子の学生をお預かりしたらどういうことになるかわからない。一方、当時の社会状勢というのは公立の中学校でもそうですし他の中学校でもそうですが、まあ今いうグレン隊ですか。そういったのが相当多くて、そして学校の帰りでもなんでも、相当注意して帰らなきゃいけないというような社会状勢もあってその中でお預かりしてしかも教育らしい教育もできないというようなことであれば、これは多少問題があったとしても男子ばかりの方がいいじゃないかということが根本の理由でした」(『二十周年記念誌』1967年)
女子トイレなど女子に必要な施設が備わっていない。戦後まもなくのころで「愚連隊」が多かった。女子を受け入れても登下校で責任をもって女子を預かることができない、という話だ。
次のページへ現役東大合格率59.6%の記録