「正義」と「悪」をどう考えるか

――『問いが世界をつくりだす』の第九章『英雄と悲劇――メルロ=ポンティにおける歴史的偶発性』では「正義」と「悪」について、歴史的偶然性の悲劇から語られています。

 信念に基づき誠実に行動してきたことが、「悪」にふるい分けられることがあります。たとえ歴史の審判によって自分が「悪」であると「立証」されてしまったとしても、自分が誠実に世のため人のためを思って行動してきたその事実は変わらない。それが悲劇なのです。自分が行ったことの意味は自分で決めることができない、他者あるいは歴史に委ねることしかできない。歴史家のような目線で自分の行動を色分けできないのです。それも悲劇と言えます。そういう歴史のうねりに巻き込まれたとき、人間はどうやっても「矛盾」した生き物であり、自分の過去を引きずってしまいます。

――「正義」と「悪」をどう考えたらいいでしょうか。 

 自らの信念に基づいた行動を「正義」と「悪」ではっきりと色分けできるものではないことを理解する必要があります。もちろん、どんな悪人にも同情の余地がある、というわけではない。この歴史の残酷さを見つめる必要があるわけです。そういう意味では、歴史のさなかにいる私たちは、現在起きていることについてはっきりと「正義」「悪」と色分けできないという前提で取り組むべきです。こちらが正義だからといってフルコミットするところから深刻な対立、解消不可能な困難が生まれます。こっちが正義だと思ってどちらかにフルコミットすべきでない。そうではなく、ひとつひとつの行動や出来事によって、だれが傷つき、世界がどのようにねじ曲がってしまったのかをみるほうが大事です。

――田村さんはメルロ゠ポンティを通じて、どのようなことを訴えたいですか。

 あなたが感じた「違和感」を大切にしてほしい、ということです。これは、「人それぞれだよね」と言って済ませることではありません。「人それぞれだよね」のその先で、自分の感じ方を他の人にもわかるかたちで伝えることができないか、自分のあり方に「共感」してもらえなくとも「理解」を示してもらうことはできないかと努力する。そういう努力の果てに、新しい「概念」がやってきます。

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