伐採権を持つ供給業者とは、何年もの付き合いになる。相手は当然、こちらの買い取りをあてにしている。突然、取引がなくなれば、伐り出した木材は他社へ安い値でも売ってしまいかねない。そうなると、次にほしいときにもう出てこない。共存共栄、相互信頼、透明な取引──すべては「フェアネス」、公正さという言葉で集約できる。

 ロングアイランド島以外にも伐採する原木を検分するため、北米の山々を巡った。山の奥深く入り、みてきた森林の様子を絵に描き、東京の本社へファクスで送る。供給業者との価格交渉の報告はテレックスだった。

 どの地域でも「フェアネス」の姿勢は、同じだ。333年前に愛媛県の四国山系の別子で始まった銅の採掘が呼んだ木と緑との縁が、住友林業発祥の由来だ。その歴史の重みも、胸にある。市川晃さんのビジネスパーソンとしての『源流』が流れ始めた5年4カ月だった。

石油危機後の氷河期就職情報誌で選んだ農林業で最初の会社

 1954年11月に兵庫県尼崎市で生まれ、父は会社員で、母と姉2人の5人家族。県立尼崎北高校から、関西学院大学経済学部へ進む。卒業前は第1次石油危機後の不況で就職氷河期。就職情報誌の農林業分野で最初に載っていた木材や建材の商社・住友林業を選ぶ。社員数は600人強と小ぶりでも、興味があった海外事業を展開していた。住友家の支配人だった伊庭貞剛氏の別子の山林再生の逸話は知らなかったが、78年4月に入社後の新人研修で別子へ宿泊し、2泊3日で山中を歩いて植林した際に教わった。

 住友家が別子銅山を開坑したのが1691年、元禄時代だ。山林の木々を、製錬に必要な薪炭や地中の坑道を支える坑木に活用し、作業者たちの家にも使う。ところが、産業振興が進んだ明治時代半ば、銅の製錬で出る煙と過度な伐採で周辺の森林が荒廃し、伊庭氏が森林の再生に大造林計画を立て、植林を重ねた。この事業を受け持った部門が、住友林業の前身となる。

 初任地は札幌市の北海道支店で、製材品を担当し、市内の住宅材の問屋や小売店に納めた。80年に結婚し、新婚家庭用の荷物を北海道へ送る予定でいたら転勤となり、次の勤務地の和歌山市へ送った。和歌山営業所はもともと国産材の流通拠点で、その後は米国やカナダからの原木の輸入基地にもなり、港近くに製材工場がたくさんあった。船を入れて、その工場へ丸太を売る仕事が中心だ。84年3月に大阪営業部の木材グループへ異動し、冒頭のシアトル赴任を迎える。

 シアトルから帰国後、本社の営業本部外材第一部で輸入丸太の販売や輸送船の管理を担当した。北米の木々の伐採は環境保護運動の広がりで難しくなり、伐り出す丸太の数が減れば価格は上がり、品質のいいものも揃わない。そこで、欧州市場の調査へいき、オランダのアムステルダムに拠点を置き、欧州材の輸入を増やす。

暮らしとモノ班 for promotion
スマホで調理する家電「ヘスタンキュー」と除菌・除臭・しわ取りできるスチームクローゼット「LG スタイラー」って何?
次のページ
伐採から住宅建設へ転進を社長に提案米豪で市場へ参入