この間、前述のとおりストの影響でシーズンが短縮された1994、95年を除き、毎年30試合以上に先発。その2年も含め、1988年から42歳で現役を引退する2008年まで21年連続で規定投球回に到達した。しかも故障者リスト入りのためわずか2/3回届かなかった2002年と現役最後の2年以外は、すべて200投球回をクリア。こんなにも「太く長く」の投手人生は、今の時代ではおよそ考えられない。
マダックスがこれだけの長きにわたってメジャーの舞台で活躍を続けられたのは、その投球スタイルと無縁ではない。ほぼ同世代の俳優マシュー・ブロデリックに似たあどけない顔立ちのまま日米野球で来日した1988年オフ、当時は落合博満(中日)、清原和博(西武)、原辰徳(巨人)といった全日本の主力打者を相手に、140キロ台半ばの速球主体のピッチングを見せていた。
だが、その後は絶妙のコントロールで速球を内外角に動かしながら、スライダーやサークルチェンジといった変化球を交えた緩急で打ち取るスタイルを究めていく。空軍退役後にラスベガスでカジノディーラーになった父親の遺伝子ゆえか、駆け引きも抜群。バッターからしたら球威は感じないので、打ち頃のようにも見える球にスイングをかけると芯を外され、ボールと思って見逃がそうとすれば「フロントドア」や「バックドア」でストライクゾーンに切れ込んでくる。まさにお手上げだった。
マダックスの速球は若い頃でも90マイル(約145キロ)前後で、ここぞという場面では三振を狙うこともあったが、基本的には打たせて取るのが身上で奪三振はそこまで多くない(キャリアハイは1998年の204個)。9イニング平均の与四球数を示す「BB9」は通算でも1.80とフォアボールをほとんど出さないため、いきおい球数は少なくなる。
通算744試合登板、投球イニング5008回1/3は、同時代に354勝を挙げた100マイル(約161キロ)右腕のロジャー・クレメンス(レッドソックスほか)を上回るものだが、通算の投球数6万5438(1試合平均88.0球)はクレメンスの7万1829(1試合平均101.3球)よりもずいぶん少ない。そうした点を鑑みても、マダックスの肩ヒジへの負担は他の速球派の投手よりは少なかったと考えられる。もちろんそこには本人のたゆまぬ努力もあったはずだ。