01年4月15日の渋谷駅前スクランブル交差点。その脇に停められた街宣車の上には、総裁選に3度目の挑戦をしていた純一郎氏と、彼を応援する田中真紀子氏の姿があった。2人の姿を見ようと、集まった聴衆はなんと約8000人と言われている。ハチ公前広場のみならず、道玄坂や公園通り、駅の構内まで人であふれていた。あれほど多数で活気にあふれた聴衆は、それまでもそれ以降も、見たことがない。
23年前と今回と、いったい何が違うのか――。
それは「田中真紀子」という存在だろう。01年の総裁選には、1995年9月22日の総裁選で304対87と大差で純一郎氏を負かした橋本龍太郎氏も出馬し、当初は純一郎氏よりも優勢だった。
それが大きく変わったのは、真紀子氏が純一郎氏支持を表明したからだ。かつて純一郎氏を「変人」と揶揄した真紀子氏だが、「変人の母ですが、産みっぱなしはよくないので、必ず育ててお目にかけなければ」と発言。これもテレビで取り上げられ、話題となった。

歴代最高の内閣支持率を記録
いわば「田中真紀子が小泉純一郎を首相の座に押し上げた」と言っていいだろう。たとえば、時事通信の世論調査では、政権発足直後の5月の内閣支持率は歴代最高の72.8%を記録した。
しかし2002年1月に真紀子氏が外相を更迭されて小泉内閣を去ると、内閣支持率は一気に下落した。そして5月と6月の世論調査では40%を割り込んだ。その差は、まさに「真紀子効果」と言えるだろう。
そして真紀子氏が離れた後、低迷した人気回復の手段が訪朝だった。このときの手助けになったのは、当時の内閣副官房長官で後に2度首相に就任し、歴代で最長在任日数(通算)の記録を打ち立てることになる安倍晋三元首相だった。森喜朗元首相に始まる清和政策研究会による支配は、こうして福田康夫元首相まで4代(森・小泉・安倍・福田)にわたり続くことになる。
その際に忘れてはならないのは、森氏が首相を辞任する直前、総裁選のやり方を変えたことだ。それまでは党員党友票として各都道府県連に1票ずつあてがわれていたが、3倍に増やして「総獲り制度」を導入した。こうして3票ずつあてがわれた各都道府県連の票は、すべて1位の候補の票とされることになったのだ。