長い間時間をかけて共有された記憶の蓄積が家族を作るのだ。それは常に更新され続ける。病んだから衰えたからといってそれを無下になど苦しくてできない。

 それにしても介護生活は本当にたいへんだ。家族だけでやり遂げるなど到底不可能だ。この小説で描かれる看護小規模多機能型居宅介護、通称「かんたき」のような制度なり仕組みがあって初めて可能だと思う。それですら容易ではないのだろう。関わってくれる看護師介護士の献身的な支えがあればこそだ。新聞などで訪問介護事業所が減っていると聞くにつけ心細い限りだ。この制度を誰もが関心を持って大事に守り育てなければならない。

 私たちは「生産性」だの「効率」だのが優先する世界に住んでいる。それとはまったく対極にある老衰死。

 私が緩慢な死を恐れたのは子や孫の足手まといになりはしないか、彼らの自由を奪いはしないかと恐れるからだ。

 それすらもいつの間にか効率だのなんだの「常識」にとらわれていたのかもしれない。

 誰もがいつかは迎える死。人の最期が片隅に追いやられたり、忌避されていいはずがない。大切な人の死に深く関わることが何よりの「死に稽古」なのだ。そうやって命はリレーされていく。

 もはや何の不安も焦りもなく生と死のあわいをたゆたうように行き来する恭輔の描写は美しい。長く生きたからこその境地だろうか。

 でもそのときは、やはり訪れる。

 長い間の緊張感から解放されて残された家族は「何か大きな仕事を終えたような晴れ晴れとした気持ち」を味わう。

 この静かな、静謐とも言える達成感は尊い。

 私たちはこの価値以上の何を求めて生きているのか。

 人より多くだの、早くだの、人と較べて優劣を競うような価値に何ほどの意味があるのだろうか。

 谷川さんはこの小説で私たちが目指すべき豊かさの質を問うたのだと思う。みごとな小説だと思った

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