価値基準の中で意義あれば 挑戦的なデザインも進める
白井屋では6年半の歳月をかけてフルリノベーションに取り組んだ。既存の建物を活かし、そこに植物が茂る斬新な壁面の新築棟を加える。25室の客室と館内は、レアンドロ・エルリッヒ、杉本博司ら世界的アーティストの作品、着想を取り込み、メインダイニングは群馬の食をフィーチャーしたイノベーティブフレンチ。群馬初出店のブルーボトルコーヒーも入居した「白井屋ホテル」は、前橋から東京を飛び越え、いきなり世界の先端都市につながるような空間に生まれ変わった。
白井屋のプロジェクトを発端に、田中は空洞化が進む中心部で空き物件を次々と取得し、「アート」と「食」をテーマにリノベーションを推進した。町全体を活性するソフトとして「群馬イノベーションアワード」「群馬イノベーションスクール」など人材の育成事業も同時に回し始めた。ホテル単体、短期で採算が取れないなら、町全体、長期で目指せばいい。その過程で、新進の建築家やアーティスト、ショップオーナーらにどんどん仕事を振っていった。
海鮮和食の「つじ半前橋店」を手がけた建築家の高濱史子(44)はその一人だ。スイスの有名な建築ユニット、ヘルツォーク&ド・ムーロンでの勤務経験があった高濱は、22年にJINSの店舗内装に起用された後、ロードサイド店2店を経て、JINS東京オフィスの移転では、全面的な設計もまかされている。
「最初に声をかけてくださった時、私はまだ実作のない駆け出し。それでも起用されたことに驚きました。田中さんは、ただお金を出すだけではなく、そこに明確な価値基準をお持ちです。コストにはもちろん厳しいですが、価値基準の中で意義があれば、挑戦的なデザインを迷わずに進めていく。まれなクライアントだと思います」
クライアントとして、前橋のプロジェクトと、JINSの事業との間には一線を引いている。前者は私財を投じて設立した「田中仁財団」と田中個人が担うが、事業家の視点でまちづくりを見ると、ここにもイノベーションを起こす余地は大いにあった。
「まちづくりをしようとすると、みなが考えるのが、お上から補助金をもらうこと。この発想を変えるだけで、他にないオリジナリティーが生まれて、発信力が高まる。そのためにはビジョンが重要ですが、多くの現場でそれが設定されていない。ということは、ここをきちんとやっていけばいい」
ビジョン、すなわち目指すものの重要性については過去にJINSで強烈な体験があった。会社が大証ヘラクレスに上場した直後、業績不振で株価が低迷。責任に押しつぶされそうになっていた時に、ユニクロの柳井正から助言をもらう機会を得たのだが、柳井から「会社のビジョン」を問われて、まったく答えることができず、寝込むほどに落ち込んだ。
それをきっかけに、社内で議論を戦わせて、「メガネをかけるすべての人に、よく見える×よく魅せるメガネを、市場最低・最適価格で、新機能・新デザインを継続的に提供する」と、明確な言語に落とし込んだ。すると、言葉が社内に浸透するとともに、業績は回復していったのだ。