それから「後法は先法に優先する」というのも、ケースバイケースで良い場合もあるけども、私たちが常識と思っていることの多くが、ローマ法によって作られています。哲学史の中からはこぼれ落ちてしまうけれども、中世が成立する過程においては結構大きいことです。ローマ法的な概念によって、キリスト教がヨーロッパに入ってきたということは指摘しておきたいと思います。哲学史で整理すると、残余の部分が出てくるものがあります。
伊藤:自分は予備校講師が長いので、生徒さんに点数を取らせないといけないというのが常に意識にあります。例えば、ソクラテス・プラトン・アリストテレスが三人セットにされているのは、師弟関係があるからだけじゃなくて、あくまでも「ポリス」という都市国家の枠内で「ポリス市民」として物事を考えている人たちだからです。それがヘレニズムの人たちの「世界市民」とは違うと教えます。
ギリシア哲学に見るドメスティックバイオレンス
佐藤:重要な点ですね。ポリスの構成員というのは基本的に「自由」であることです。自由民には貴族と平民がいて、それ以外に奴隷、女性、子どもがいた。この人たちは自由民の外側にいます。だから、ポリスの基本は「ノモス」、つまり法になるけれど、奴隷や女性、子どもたちをすべて包括した社会とは何か、ということは教科書に出てこない。
家庭や家政というのは「オイコス」です。そこを支配する力は何かといえば、それはノモスじゃなくて「ビア」といって「暴力」です。家庭の領域には、政治の領域における法はなくて、暴力が平然と介入してくる。こうしたヨーロッパ的なルールは根源的に、今でいうところのドメスティックバイオレンス(DV)とつながりがあるんじゃないかと見ることもできます。経済の領域においても、「金さえあれば何でもできる」というある種の暴力性が潜んでいる。だから現代においてもギリシア哲学の大枠は重要だと思います。