「投手陣の“生きた手本”に」と見込まれ、テストを経て入団が決まる。「あきらめず、打たれても打たれてもしつこく勝ちに向かっていく姿を見てほしいです」と意欲を新たにした下柳だったが、4月1日のロッテ戦から4試合に先発し、0勝2敗に終わると、同26日に登録抹消。そのまま1軍に復帰することなく、10月に戦力外通告を受けた(翌13年3月に引退発表)。

 日本ハム時代の12年にリーグ2位の14勝をマーク、最優秀防御率(1.71)にも輝き、チームの優勝に貢献した吉川光夫も、NPB最終年に1年だけ在籍した西武のイメージは薄い。

 16年オフに2対2の交換トレードで巨人に移籍した吉川は、19年シーズン途中、2対2のトレードで古巣・日本ハム復帰も、20年は登板5試合に終わった。

 だが、深刻な左腕不足に悩む西武・辻発彦監督が「のどから手が出るほど欲しかった」と熱望し、金銭トレードで移籍が決まる。

「自分にとってチャンス。真っすぐを軸として投げられるようにしたい」と復活を誓った吉川だったが、翌21年は登板5試合で防御率16.62に終わり、1年で戦力外に。その後、BC栃木で現役を続けている。

 後の監督経験者であっても、在籍していた当時の印象が薄い球団がある。

 黄金時代の西武の遊撃手・田辺徳雄は、99年オフに戦力外通告を受けたが、「力が落ちたとは思っていない」と現役続行を望み、右打者の補強を急務とする巨人に金銭トレードで移籍した。

 心機一転登録名も「路朗」に変えて内野のポジション獲りに挑んだが、7打数1安打と結果を出せず、2度目の戦力外通告を受けて引退した。その後、西武のコーチ時代の14年シーズン途中、伊原春樹監督の休養に伴い、監督代行に就任。翌15年から2シーズン監督を務めた。これだけ西武のイメージが強いと、たった1年、7試合しか出場していない巨人時代の印象が希薄になるのも無理はない。

 オリックス・中嶋聡監督も、29年間の現役生活でオリックス(阪急)、西武、日本ハムと「パ・リーグひと筋」のイメージが強いが、実は03年の1シーズンだけ横浜に在籍している。

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現指揮官にも1年だけプレーした印象薄の球団が