そして、この番組でのすごさは、ただ泣くことだけではない。
「歌の後半で、カメラがどアップになるんですよ。涙の一粒一粒が数えられそうなくらい(笑)。そのどアップが、とてつもなく美しいのです。
今回取材を受けるために、あらためて見返したのですが、このときの『いくつかの場面』は、涙があふれるほど感情をあらわにするにもかかわらず、声が揺れないし、ぶれないのもすごいと思いました」
沢田研二の滑らかな頬を伝う一粒一粒の涙をカメラが抜いた歌番組「セブンスターショー」の構成は阿久悠氏、プロデューサーは久世光彦氏。沢田研二の“見せ方”を考え抜き、よくわかっている2人だからこその映像だったのだろう。
スージー鈴木氏が次に挙げるのは、あの有名な紅白!
「第34回NHK紅白歌合戦」(NHK総合)
「外せないのは83年12月31日のNHK紅白歌合戦」とスージー鈴木氏が言うのは、沢田研二を語る上でも、また紅白の歴史からも語り継がれるシーンだ。
「ファンの間では有名ですが、総合司会だったタモリが“歌う日露戦争”と称した『晴れのちBLUE BOY』の歌唱です。この歌唱で、同年紅白のベストパフォーマンスをたたえる『金杯』に輝いています。
『晴れのちBLUE BOY』という曲自体がラディカルな曲で、作詞・銀色夏生、作曲・大沢(現:大澤)誉志幸、編曲・大村雅朗という新しい才能が組み合わさって生まれたものです。当時、作曲家の宮川泰が『カラオケで歌えない歌が出てきた』と評したといいます。
ファッションも、軍人風というか、ニューロマンティックというか、とても不思議で、でもめちゃくちゃかっこいいファッションで歌いきった。
翌84年の紅白の『アマポーラ』では、胸から血が吹き出る驚きの演出。さらに85年の『灰とダイアモンド』は一転、シンプルで力強いステージでした。
さかのぼると、73年の紅白で『危険なふたり』を歌ったときの異常なほどに長く、真っ赤でふわっふわのマフラーも、とても鮮烈で印象に残っています」
紅白歌合戦の歌唱シーンだけを挙げていっても千変万化な沢田研二。テレビの前で老若男女が熱狂していたのも、振り返ってみるとうなずける。