都市設計を志して就職したのが、六本木ヒルズなどを手がけた大手設計事務所だ。山崎は2年目に一級建築士に合格すると、一人で設計を任される。山崎の妻で、当時、同じプロジェクトに携わった川島由梨(44)は、その仕事ぶりをこう語る。
「基本設計から、とにかく人より時間をかけてやる努力を惜しまない人。スケジュールを気遣う上司にはそこまでやらなくても……と言われたこともありました。でも、彼は時間が迫っていても、複数の可能性を一つずつ確かめ、最適な答えが出るまで粘り強くやっていた。良いものを作ろうと、ずっとあがいているように見えました」
現場監理を任された巨額のプロジェクトでは、途中で大手ゼネコンが倒産する危機にも直面した。民事再生で救済されたが、ゼネコンの所長は経費を抑えようと、変更を次々要求し、「設計が悪いから」と理不尽に押し通す。品質管理を担う若い設計者の意見は受け入れられず、「すごく悔しくて、よく飲んだくれていた」と、山崎は苦笑する。
大規模なプロジェクトに挑戦する醍醐味(だいごみ)は経験したが、ワクワクしなくなっていく。資本の原理のもと、利益回収を追求する施主とゼネコンの板挟みになる日々。ひらめきや好奇心も摩耗していた。辞め時かと思い始めたのは30代に入った頃。折しも実家を建て替える話が出る。山崎は仕事の合間に設計に取り組もうと決めた。
山崎は実家で母の生活を見ていて、気になることがあった。それは、母がいつも風呂場の窓や扉を開け放し、庭を眺めながら湯船に浸(つ)かっていたこと。明るく自由な人だが、陰で抱える苦労も窺(うかが)われた。同居していた姑(しゅうとめ)が厳しい人だったので、母は庭に好きな草花を植える楽しみも遠慮して生きてきたのだ。ようやく姑に仕える務めを終えた母のために設計したのが「庭の中の家」だった。
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その家はキッチン、居間、バスルーム、書斎と、それぞれ扉がなくひと続きになった平屋で、いたるところに大きな窓がある。庭に植えた花を眺めながら、料理をしたり、本を読んだり、お風呂に入ったり……広い庭の中に住むような住宅だ。母の礼子(72)は黙って、息子に任せるつもりでいた。
「健太郎は2年ほど一緒に暮らすなかで、私の生き方も感じていたみたいです。昔の家は開放的じゃなくて庭はすごく遠かったけれど、私はいつでも扉を開けておきたかったし、ドアや壁もぶち壊したかった(笑)。好きな庭に横たわって最期を迎えられたら、それで私は本望だから」