敷地は南北に細長く、山崎は多世代が交流する空間を考えたとき、「縁側」を思い描く。52間(約95メートル)の縁側があり、どこからでも出入りできる細長い木造家屋。そこにカフェと工房、リビング、離れのような座敷と浴室も配置する。設計図を見た石井は「いいね!」と即答したという。
「昔の民家には縁側があって、近所の人がおしゃべりしたり、子どもが遊びに来たり。そんな内と外との境があいまいで開かれた場所にしたかった。細長い建物は少し使い勝手が悪いかもしれないけれど、不便だからこそ言葉を交わしながら助け合う場面が増えていく。コミュニケーションが自然に生まれる場になればと思ったんです」(石井)
「52間の縁側」の原点は実家の「縁側」の記憶だった
だが、行く先には次々に困難が待ち受けていた。石井は資金調達に苦戦し、銀行から融資が下りても、測量ミスや埋蔵文化財が見つかって延期に。コロナ禍では木材不足で高騰するウッドショックが起き、木材確保が滞って工事が止まってしまう。
石井は「心折れそうになって、健太郎さんの事務所へ駆け込んで泣いたことも」と照れるが、山崎は「大丈夫だよ。ちゃんと思いがあれば絶対にうまくやれる」と。手弁当で現場へ通い、泥だらけになって庭造りにも励んだ。完成まで7年あまり。山崎は半ば「やけくそだった」と苦笑するが、自身の原点に立ち戻る日々でもあったようだ。
「52間の縁側」に結びつく記憶は実家の「縁側」にあった。千葉の佐倉で育ち、両親と祖母、弟と暮らした家。子どもの頃は縁側から出入りし、自分と社会を繋げてくれたのが縁側だった。
どうして建築の道へと尋ねると、実は大学時代までの記憶がほとんど途切れているという。絵を描くのが好きで、消去法のように建築学科へ。自由にデザインを考えられる設計を専攻したが、建築家としての夢や目標も見えていなかった。
過去の記憶が鮮明になるのは大学院1年目。米サンフランシスコでアーバンデザインのワークショップに参加した。学生たちと街を歩き、意見を交わす。山崎は新鮮で楽しかったと懐かしむ。
「大学では課題を黙々とこなし、周りと競うようにやっていたけれど、いろんな人と話しながら作り上げることはすごく創造的だと思ったんです」