驚くのは、一条天皇の例だ。側近・藤原行成(ゆきなり)が、天皇自身から聞いたこととして、日記『権記(ごんき)』に記している。寛弘八(一〇一一)年五月、天皇はまだ三十二歳の壮年だった。軽い病にかかったものの、それは快方に向かっていた。だがその矢先に、彼は自分の病状に関する易占の結果を聞いてしまう。「豊(ほう)の明夷(めいい)」。卦(け)自体は決して悪くないものだが、気味が悪いのは、村上天皇(九二六~九六七)や醍醐天皇の崩御(ほうぎょ)の折にも出た卦だということである。実はこの占いは藤原道長が学者に命じて行わせたもので、本来は天皇の耳に入れるはずのものではなかった。だが、あまりの結果に道長は動揺、天皇が臥す夜御殿(よるのおとど)の隣の部屋で、僧とともに声を上げて泣いてしまった。帝は何事かと几帳(きちょう)のほころびから覗き、全てを知ることになった。その結果、病状は急変、一カ月後には本当に亡くなってしまうのだ。占いは当時、一種の科学と信じられており、天皇には死の宣告となった。死ぬと信じたことで彼は命を奪われたのだ。

 もっと明確に現代の病名が充てられる例といえば、三条(さんじょう)天皇(九七六~一〇一七)の眼病である。「炎症性緑内障(りょくないしょう)」。国文学者の山岸徳平氏の推測に、医学博士で医学史の研究者でもある服部敏良氏が太鼓判を押している。藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』によれば、三条天皇は即位から三年後の長和三(一〇一四)年春ごろから片目が見えなくなった。翌年には両眼ともほぼ失明。ところが瞳には濁りがなく、外見上は視力を失ったように見えない。また時には視力が戻ることさえある不可解さだ。同年五月七日の『小右記』は、賀静(がじょう)なる天狗僧の霊が現れて、帝の眼疾は自分が御前にいて時折翼を開き、御目を塞いでいるせいだと白状していると記す。当時の人々には、天狗や物(もの)の怪(け)のせいとしか考えられない症状だったのだろう。服部氏はこれを、ストレスによると診断する。炎症性緑内障は中年以降では精神過労により発症することがあり、心神の安定で一時的に視力が戻ることもあるという。確かに天皇は、道長に譲位(じょうい)を迫られるなどストレスの増した日には目が暗くなり、邪気祓いなどの後には明るくなっている。

 今も昔もストレスは怖い。ところで今回紹介した四つの症例の内、三つにまで関わっている人物がいる。藤原道長だ。どの症例においても、彼が患者にストレスを与えている。彼が栄華を獲得する道とは、こうした道でもあったのだ。ストレスよりも怖いのは、人にストレスを与える人間である。

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山本淳子

山本淳子

山本淳子(やまもと・じゅんこ) 1960年、金沢市生まれ。平安文学研究者。京都大学文学部卒業。石川県立金沢辰巳丘高校教諭などを経て、99年、京都大学大学院人間・環境学研究科修了、博士号取得(人間・環境学)。現在、京都先端科学大学人文学部教授。2007年、『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞受賞。15年、『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)で第3回古代歴史文化賞優秀作品賞受賞。選定委員に「登場人物たちの背景にある社会について、歴史学的にみて的確で、(中略)読者に源氏物語を読みたくなるきっかけを与える」と評された。17年、『枕草子のたくらみ』(朝日選書)を出版。各メディアで平安文学を解説。近著に『道長ものがたり』(朝日選書)など著書多数。

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