この作品のできる数年前まで、日本の映画界は男優を中心に戦意高揚の国策映画をつくっていた。女優はそえものにすぎない。その反動が、敗戦後の映画界を大きく変えた。男優に代わって、女優が民主主義の到来をスクリーンで強烈にアピールするときがやってきた。そのひとりが原節子だった。

 原は、黒澤監督の「わが青春に悔いなし」以後も、つぎつぎに巨匠の作品に出演した。吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」(昭和22年)では、敗戦で自棄になった没落華族の中にあって勇気をもって生きようとする明るく健気なヒロインを演じた。さらに木下恵介監督「お嬢さん乾杯」(昭和24年)、今井正監督「青い山脈」(同年)、そして女優・原節子の晩年に大きな影響をおよぼした、小津安二郎監督「晩春」(同24年)に出演した。

 戦前の原は、とかくその美貌と育ちの良さばかりがマスコミでもてはやされた。いわく「洋風の近代的な美貌と優れた肉体、知的な感覚」、いわく「大きな眼と均整のとれた姿態、清らかな美貌」。

 そうした肉体的な魅力は、戦前、海外の映画人にも認められた。ドイツとの合作映画「新しき土」(昭和12年、アーノルド・ファンク監督)に主演。この作品を見たフランスのジュリアン・デュビビエ監督からは「使ってみたい」と言われ、ハリウッドのプロデューサーからは「3年間辛抱する気があるのなら、スターにしてあげよう」と声をかけられたこともあった。

 しかし、日本では、そうした海外での評価、洋行帰りといったことが、逆に関係者の反感をかったらしい。ことあるごとに“大根女優”と陰口をたたかれた。その“大根”も、戦後になってイメージを徐々にではあるが好転させていく。

 小津監督のもとで、原は「麦秋」(昭和26年)や名作「東京物語」(昭和28年)ほかに出演、女優人生を一気に花開かせた。そして昭和37年、原は東宝作品「忠臣蔵」を最後にスクリーンから去っていく。

 引退宣言はなかったから、映画界に決別した理由はいまだに謎のままである。結婚が噂された、小津監督が亡くなったのは、その翌年のことだった。このとき、原は、弔意を表すのに芸名の「原節子」ではなく、本名の「會田昌江」を名乗ったという。

(文 生活・文化編集部 宮本治雄)

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