剛球やフォークなど絶対的なボールを武器とする抑え投手が多い中にあって、変化球を低めに集めて打たせて取るタイプの鹿取は「言ってみれば私は“経験派”です。球のスピードや威力といった部分で勝負するのではありません。打者との駆け引きを含めた総合力で戦うスタイルです」(自著「救援力 リリーフ投手の極意」ベースボールマガジン社)と自らを分析している。

「先発完投」を理想とする藤田元司監督時代は出番が減ったが、出場機会を求めて90年に西武に移籍すると、5月30日のダイエー戦で当時の日本記録、10試合連続セーブを達成。「周りの人に獲らせてもらったようなもの」と連日起用してくれた森祇晶監督やチームメイトに感謝の言葉を贈っている。

 鹿取とともに90年代の常勝・西武の勝利の方程式を担ったのが、潮崎哲也だ。

 鳴門高2年秋に内野手から投手に転向した潮崎は、招待試合で対戦した同じ横手投げ投手のシンカーをヒントに見よう見まねでマスターした新球が、大きな武器となる。薬指と中指の間から抜いて投げるという従来のシンカーと異なる投げ方にもかかわらず、威力は抜群。緩急の差でストレートも生きるようになった。

 松下電器入社後、ストレートも150キロ近くまで伸び、「シンカーがなかったら普通のサラリーマンになっていた」男の運命を大きく変える。

 そして、ドラフト1位で西武入りすると、1年目から鹿取と併用で抑えを務め、92年に10セーブ、95年に12セーブ、96年に11セーブを記録。また、鹿取にルーキー左腕・杉山賢人を加えた抑え3人体制から“サンフレッチェ”と呼ばれた93年にも、キャリアハイの53試合に登板し、6勝8セーブと安定した成績を残した。

 潮崎に対抗して磨き上げたシンカーを武器にクローザーの座を掴んだのが、ヤクルト・高津臣吾だ。

 92年の日本シリーズで、ヤクルトは潮崎のシンカーに苦しめられ、日本一を逃した。野村克也監督はその教訓から、シリーズで1度も登板せずに終わった高津に「150キロの(速球を投げる)腕の振りで100キロのシンカーを投げろ」と命じた。

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