巨人時代はクローザーを務めた角盈男。※写真はヤクルト在籍時のもの
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 クローザーというと、かつての藤川球児に代表されるように上手投げの剛球投手のイメージが強いが、その一方で、サイドスローのクローザーとして活躍した投手たちも少なくない。

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 その走りと言えるのが、巨人時代の角盈男だ。

「プロ入りした当時は、その日に投げてみないと調子がわからなかった」と言うほどの荒れ球で、四球で自滅することも多かった。

 転機となったのは、長嶋茂雄監督時代の1979年秋の伊東キャンプ。常に安定した力で投げられるよう、いろいろな投げ方を試し、上手からサイドに変えた。「ダイナミックなフォームの魅力がなくなった」とマスコミから批判されたが、長嶋監督は「いいんじゃないの。責任はオレが取るから」と意に介さず、自由にやらせてくれた。「あの言葉がなかったら、不安になって、また上に戻していたかも」(角)。

“地獄の伊東キャンプ”を経て、リーグ唯一の左の横手投げに生まれ変わった角は翌80年、リーグ最多の56試合に登板し、11セーブを記録。左の強打者、特に外国人に強く、“外国人キラー”の異名も取った。さらに藤田元司監督時代の81年には、8勝20セーブを挙げ、最優秀救援投手に輝くとともに、チームの8年ぶり日本一にも貢献した。
 
 1980年代半ば、前出の角とともに巨人のリリーフ陣を担い、その後、クローザーを務めたのが、鹿取義隆だ。

 中学時代は捕手だった鹿取は当時から横手投げで、投球を受けたあと、マウンドに返球したところ、打席内の打者の頭に当たってしまったというエピソードを持つ。

 巨人入団2年目の80年に51試合に登板し、4勝3敗3セーブ、防御率1.78とリリーフ陣の柱に成長。84年に王貞治監督が就任すると、「ピッチャー・鹿取!」が流行語になるほど重用された。王監督の信頼に応えようと「壊れてもいい」の意気込みで連日マウンドに立ちつづけ、87年にはリーグトップの登板63試合、7勝18セーブを記録。チームの4年ぶりVに貢献した。

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