緊急来日も爪痕を残せずに帰国となった巨人・ハイネマン(写真提供・読売ジャイアンツ)
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 今や1球団に7、8人の助っ人がいるのも珍しくないが、外国人登録枠が2人や3人だった時代は、故障などで離脱した助っ人の穴を埋めるために、緊急補強は必要不可欠だった。だが、中にはまったく戦力にならなかった助っ人も多く存在した。

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 1993年シーズン途中、巨人に入団したのが、ミッキー・ブラントリーだ。

 貧しい家庭で育ち、不遇の幼年期を過ごしたが、努力の末、教員免許を取得。大学卒業後、地元・キャッツキル高校で数学の講師をしているときの教え子にマイク・タイソンがいた。

 マリナーズ時代は通算302試合に出場し、32本塁打を記録。93年は3Aで3割5分を超える高打率をマークしたのが巨人の目に留まり、左手首の故障で離脱したジェシー・バーフィールドの代役として6月28日に契約した。

「巨人で一流プレーヤーになって、アメリカの家族に幸福をプレゼントしたい」と夢見る練習熱心な努力家に、長嶋茂雄監督も「ナイスガイです。応援したい男ですねえ」と惚れ込んだ。

 7月17日のヤクルト戦で代打デビュー。翌18日のヤクルト戦では、7番ライトで先発し、来日初安打を記録した。

 さらにオールスター明けの7月28日のヤクルト戦では、初回にセカンドとセンターの間にポトリと落ちる幸運な満塁の走者一掃の先制三塁打を放ち、来日初打点を挙げた。

 だが、変化球を多投する日本の投手になじめず、戦列復帰したバーフィールドと入れ替わりに登録抹消。出場13試合、打率.182、0本塁打、4打点に終わり、同年限りで解雇された。

 巨人といえば、エリック・テームズ、ジャスティン・スモークの両助っ人がけがなどで相次いで帰国した21年にもスコット・ハイネマンを緊急補強しているが、出場10試合で打率.160、0本塁打、2打点とまったくの期待外れ。その挙句、原因不明の体重減を理由に帰国したため、「何しに日本に来たの?」の声も出た。

 名前を漢字表記した「団権三(だんごんぞう)」の呼び名で親しまれたのが、81年に阪神に入団したダン・ゴンザレスだ。

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メジャー経験のある「団権三」も日本では…