だが、チームは79年の2位、83年の3位以外はBクラスに低迷し、最下位も4度経験。1度も優勝の美酒を味わえないまま、88年の開幕直前に引退した。

 その後、横浜時代の98年に権藤博監督のヘッドコーチとしてチームをまとめ、38年ぶりの日本一に貢献したが、監督時代は花を咲かせることができなかった。

 03年、日本一からわずか4年で最下位に沈んだチームの再建を託され、8年ぶりの生え抜きOBとして新監督に就任。チームの底上げには時間がかかることを承知しつつも、「プロである以上、1年1年が勝負で、勝つことがチームの活性化につながる」と躍進を誓った。

 だが、1年目はFA移籍の若田部健一、“3億円助っ人”コックスが戦力にならないなどの誤算が相次ぎ、5位・広島に22.5ゲーム差で2年連続最下位に沈む。

 翌04年も4月に首位に立ったものの、5月以降失速し、終わってみれば5位・広島に1厘差の最下位。2年契約だった山下監督は、シーズン中の10月8日に「来季は契約を結ばない」と通告され、「ここ2年の成績を考えれば当然と思う」と志半ばでチームを去った。

 チームは異なるが、選手、監督の両方で暗黒期を味わったのが、横浜・尾花高夫監督だ。

 77年のドラフト4位でヤクルトに入団。1年目に球団初のリーグ優勝と日本一を経験しているが、同年は登板7試合にとどまり、日本シリーズも出番なしで終わった。

 そして、ヤクルトは翌79年から10年間で最下位5度という“冬の時代”に突入する。この間Aクラスは80年の2位だけ。エースになった尾花も二桁勝利を5度達成しながら、82年には防御率2.60で12勝16敗という“無援護”に泣いた。

 そんな逆境にもめげず、現役最終年の91年まで通算112勝29セーブを記録したが、皮肉にもヤクルトは、苦難の時代を支えたエースと入れ替わるように、翌92年に14年ぶりV、93年に日本一と黄金時代の幕を開けている。

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投手力強化を急務とする横浜の新監督に