なのだがちょっとだけ、モヤモヤしたことがあった。鮫島の謀略(?)から脱するきっかけが、愛子なのだ。記事が出た後、スズ子が「誤解を解きたい」とおミネを訪ねる。配下の女性たちに囲まれるが、理解を得たのは1人で愛子を育てる必死さを語ってから。そしてラクチョーの女たちが、一斉にスズ子ファンになるという展開だった。それだけでなく、茨田も愛子の泣き声を思い出す様子が描かれてから、スズ子の家を訪ねるのだ。
うーん、愛子かー。引っかかったのは、母親がオールマイティであるかのような描かれ方だと感じたからだ。いや、そういう描き方とも言い切れない。おミネ配下の女性たちが反応したのも、「ワンオペ育児」より「愛する人の死」とわかる台詞になっていた。でも「スズ子VSおミネ」の決着=和解の台詞は、おミネの「そうかい、あの楽屋にいた赤ちゃん、女の子かい」だった。これってどうかなー。
シスターフッドが好きだと書いた。母親同士、気持ちが通じ合うのは当然だとも思う。なのに、モヤモヤする。これは私が母親でないからだろうか。などなどと考えて、ふと思った。これって「女性の対立」という罠に、私がはまっているのかも、と。子どもがこの世に誕生するにあたり、産むのは女性であること、結果、育てるのも主に女性が担当してきたこと。そこからあれこれがあって、すっごく簡単にまとめるなら女性という存在は今も単純ではない。ということだと思う。
茨田はスズ子の家で、まず愛子にこう語りかけた。「愛子ちゃん、元気だったかい? 会いたかったよ。はい、あめっこ」。茨田の青森弁は、すてきだ。理屈抜きで優しく、本心だとわかる。こういうシスターフッドを目の当たりにすると、私は泣いてしまうのだ。その純粋さに泣けるのだ。