(撮影/篠塚ようこ)

 大学の頃から、ふとしたはずみに転ぶようになる。だが自分がそそっかしいからだと考えていた。4年になったころ、動きがおかしいと気づいた父が病院に行くように勧めた。大学病院で検査入院すると「遠位型ミオパチー空胞型(GNEミオパチー)」と診断された。潜性遺伝によるもので、日本には患者が400人ほどのウルトラオーファン(超希少性疾病)だった。

「治療法がないこの病気は、やがて寝たきりになると言われていましたが、徐々に進行するので診断当時はまだ体が自由に動いた。だから、気力で治してやるぐらいに考えていました」

 公認会計士を目指し大学と並行して専門学校に通う織田に、周りは「そんなに頑張らなくても」と心配した。そのたびに唇を噛(か)む。頑張ることに喜びを感じる織田にとって、頑張るなは自己否定されたも同然だった。

 だが2年後の24歳の時、医師に子どもを産むなら少しでも早くと告げられた。大学入学当時から付き合い始めた洋一とは常に一緒だった。学部は違うものの、織田の授業が終われば洋一が教室の出口で待ち、階段の昇降をサポート。専門学校にも一緒に通った。友人の牧野和子(43)は、二人に入り込む隙が無かったと笑う。

「私たちは女性7人の仲良しグループで、行動は常に一緒でした。でも友理子の隣にはなぜかいつも洋一がいた」

新薬の開発を求めて 製薬会社を回り打診

 医師に子どもの話をされたとき、洋一と別れる決心をした。希少疾病に侵されている以上、洋一の未来を奪ってはいけないと考えたからだ。病気について微細に報告したにもかかわらず、洋一からの返事は「じゃあ、結婚するなら今だね」。

 洋一は、病気は別れる理由にはならないと語る。むしろ病気が判明した頃から、友理子の手足になるのは自分と決めていた。法科大学院に学びながらも、妻の行動を支えることで自分の人生が豊かになると考えた。

「妻は僕にないものをたくさん持っている。新たなことを考え、それらを有機的に組み立て、最高のものを生み出そうとする。一緒にいるだけでワクワクしますね」

 二人はすぐに結婚。1年後に男の子が誕生した。出産前に切迫流産の危険があり、4カ月入院。その間に筋力が衰え、出産後は車いすを使用せざるを得なくなった。

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