「連覇。それ一点やから!」と、2年連続日本一を目標にキャンプで調整に余念のない岡田阪神。2リーグ制以降、昨季も含めてリーグ優勝6回を刻んだ阪神だが、まだ連覇は1度もない。過去5回の優勝翌年の戦いぶりを振り返ってみよう。
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まず2リーグ制以降、初のリーグVをはたした翌年の1963年は、前年、75勝のうち計52勝を稼いだ小山正明、村山実の両エースをいかに打線が援護するかが連覇の条件だった。
だが、めぼしい補強もなく、同年からストライクゾーンが狭まり、投手不利になったことも不安視されていた。
さらに米レイクランドでの海外キャンプも失敗に終わり、開幕から10試合で2勝8敗とつまずいた。帰国後、村山が風邪をこじらせて、2連敗後に休養。開幕戦で白星を挙げた小山もその後3連敗と、頼みの両エースが揃って不調に泣いた。
さらに野手陣も主力が相次いで故障離脱。巨人に8月初めまで2勝19敗と大きく負け越すなど、Bクラスが定位置となり、9月末からの11連勝も遅きに失し、3位に終わった。
同年オフ、長距離砲不在の悩みを解消するため、小山を放出し、大毎の4番・山内一弘を獲得する“世紀のトレード”を断行。この“大手術”が功を奏し、翌64年にV奪回を実現した。
だが、連覇がかかった65年は、村山、バッキーの両エースを中心にリーグトップのチーム防御率2.47をマークしながら、チーム打率はリーグ最下位の.220と投打がかみ合わず、3位転落。優勝した巨人に19.5ゲーム差と大きく水をあけられた。同年から巨人のV9が始まり、阪神は21年間優勝から遠ざかることになる。
85年、阪神はバース、掛布雅之、岡田彰布を軸とする強力打線が爆発し、21年ぶりリーグVと初の日本一を達成。翌86年も強力打線が健在で、連覇が期待された。
だが、同年からストライクゾーンが低めに変更され、打者不利になったことが、猛虎打線をパワーダウンさせる。開幕カードで前年17勝6敗3分と“お得意さん”の大洋にまさかの3連敗。開幕から7試合で1勝6敗という苦しい戦いのなか、4番・掛布が4月20日の中日戦で左手首に死球を受け、骨折で離脱。復帰後も故障に悩まされ、67試合しか出場できなかった。さらにエース・池田親興も5月27日の巨人戦で一塁カバーの際に右足首後部を骨折し、シーズンの大半を棒に振るなど、投打の主力のリタイアも痛かった。