元日に発生した最大震度7の能登半島地震から、1カ月が過ぎた。死者は200人を超え、いまなお多くの人が避難生活を余儀なくされている。一日でも早い復興をお祈りし、あらためて発生直後を振り返りたい。(2024年1月8日に掲載された記事の再配信です。肩書や年齢等は当時のもの)。
【写真】崖に面したガードレールがない! 輪島に向かう道路がヤバイことに(計10枚)
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2024年元日に起きた能登半島地震の被災地取材のため、記者は2日に羽田空港から石川県の小松空港に飛んだ。目指したのは輪島市。交通路が断たれたことで市内の状況がほとんど報じられておらず、何が起きているのか、この目で見て、伝えたいと思った。石川県内での死者のうち、多くが輪島市で確認されている。いまだ安否確認ができない人も多数いる。最初の地震発生直後、現地に向かうまでの各地域や、輪島市内での様子をリポートする。
3日午前6時半。前日夜になんとか確保できたレンタカーで金沢駅近くのホテルを出発した。金沢市内から輪島市の中心部までは直線距離で100キロ程度。平時であれば、石川県西側の海沿いから、40キロ先の能登半島の西の付け根、羽咋市(はくいし)を抜けて輪島市の手前、穴水町の北部までを有料道路で行ける。残りは一般道で10キロ程度のため、トータルでも2時間ほどで着ける。しかし、地震で道路が寸断されているため、半島の東側へ大きく迂回(うかい)するルートで向かうしかなかった。
金沢市内を走る間は、震災の影響はほとんど見受けられなかったが、半島の東の付け根に位置する氷見市(富山県)にさしかかると、少しずつ様子が変わってきた。
「ENEOS」の看板が粉々に
ブロック塀が崩れて散乱し、道路の亀裂によって車がガタガタと振動する。本来、正面からだと横長の長方形に見えるはずの家々は、横にゆがんで平行四辺形のようなフォルムになっている。歩道では、老夫婦があたり一面の泥を懸命にかき出していた。
早めにガソリンを補充しておこうとスタンドに近づくと、ざっと数十台の車が長蛇の列をなしており、やむなく断念した。その先にあった「ENEOS」は、オレンジの看板が地面で粉々になっており、店員はいなかった。
氷見市から北上し、「加賀屋」で知られる和倉温泉のある七尾市(石川県)に入った。氷見市の中心部から七尾市の中心部までは二十数キロだが、街なかの被害状況は違っていた。停電が目立ち、信号も機能していない。交差点などでの交通の秩序は、“譲りあいの精神”と“あうんの呼吸”によってどうにか保たれていた。