しかし、当時は都心部の住宅事情が今よりもずっと劣悪だった時代である。公害もひどく、今日のような良質な集合住宅もまだほとんどない。宅地分譲と言えば、さすがに成田の山奥とまではいかないまでも、多少都心部から離れていようとも緑豊かな郊外が喜ばれた時代だったことも事実である。それもあって、現実には通勤はなかなか困難であろうと思われるような遠郊外部の分譲地でも、今ほど奇異なものとして捉えられなかったところはあったのかもしれない。

 ところが実際には、利便性が著しく低く、価格の安さばかり大きくアピールしていたような分譲地は、自分では暮らす気のない、投機目的の購入者が大半を占めていたのが実情であった。

 もちろん、分譲当初から自己使用のために購入し、家屋を建築した住民もいないわけではなかったが、全体として極めて少数派であり、大半の区画が空き地のまま放置されていた。1976年に分譲された香取郡下総町(現・成田市)のある住宅団地は、その8年後に撮影された航空写真を見ても、総区画数200区画のうち、建物はわずかに10戸ほどしか見られない。

 分譲地によって多少差はあるものの、最初から建売販売が行われた分譲地を除き、80年代半ばころまでに開発された成田空港周辺の住宅分譲地で、区画のすべてに家屋が建築されたところなどほぼ皆無なのではないだろうか。駅や商業施設にも近い条件の良い住宅地を除き、どこも建物の間の所々に空き地が残されたままの光景が日常のものとなっている。

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バブル期に脚光浴びた千葉北東部