スイス・ジュネーブで開かれたGESDA(Geneva Science and Diplomacy Anticipator)サミットに参加したとき。左からアリソン・シュヴィア・米国務長官次席科学技術顧問、松本洋一郎・外務大臣科学技術顧問、パトリシア・グルーバー・米国務長官科学技術顧問、小谷元子・外務大臣次席科学技術顧問=2023年10月、外務省提供

――それは素晴らしい。鎌倉で中学に入ったわけですね。

 はい、横浜国立大学付属鎌倉中学校に入り、高校から東京学芸大学付属に行きました。

――中高時代のクラブ活動は?

 やらなかったですね。運動会とかは嫌いでした。みんなで何か一緒にやりましょうっていうのが苦手で。

――大学では?

 入っていないんじゃないかな。東大には進振り(進学振り分け)があるじゃないですか。

――はい、3年生で進む学科を、1、2年生のときの成績順で決めていく制度ですね。

 私は数学科に進むために東大に入ったので、進振りで落とされたら悔やんでも悔やみきれないと思って、結構勉強しました。それまでは英語とか全然やらなかったけれど、大学に入ったら語学も一生懸命やった。

基本的には仕事しかしていない

――それで希望通りに数学科に進学できたわけですね。取材をお願いしたとき、「私は良いロールモデルではない」っておっしゃいましたよね?

 はい。家族もいなくて、趣味もそんなになく、基本的には仕事しかしていないんで。家族がいる人が幸せとかいう意味でもないんですが。

 私の年代で、教授とかになっている人の多くが結婚していない、もしくはお子さんはいない方なので、やはり当時は両立するのは難しかったのだと思います。私自身は、子どもを育てながら業績を上げていく自信がなかったので、そこは二者択一しました。

――結婚はされた。

 はい、26歳のときに東大の駒場時代の同級生と。振り返ると、私のほうが勝手に「こうあるべき」像みたいなものをつくって、それがちゃんとできないことにストレスを感じていたんですね。すごく悩みましたし、相手の人には申し訳なかったという気持ちでいっぱいですが、育児は女性だけが負担するものではないし、時代も変わり、ワークライフバランス環境も変わってきました。今はいろんな選択肢がありますね。

――このシリーズをやってつくづく思うのは、日本社会もここ50年ほどでずいぶん変わってきたということです。昔は女性が大学で職を得るのは本当に大変でした。小谷さんは博士号を取って、すぐ東邦大学の講師になったんですね?

 そうです。

――助教授になったのはいつですか?

 1997年4月からです。

――その前にドイツのマックスプランク研究所に行った。

 はい、当時の所長は微分幾何の有名な学者で、ちょっと日本びいきでした。それで、日本人が結構行っていた。私が行ったのは1993年だから、ソビエト連邦が崩壊したあとで、旧ソ連から優秀な数学者がいっぱい世界に出ていって、学位を取ったばかりの人のポスト獲得競争が厳しくなって大変、という時期でした。それで欧州だけではなく米国など世界中からたくさん優秀な若い人が一時的にマックスプランクに来ていて、そういう人たちと仲良くなって楽しかった。日本人とアメリカ人はドイツ語ができないという共通点があり、自然とアメリカ人と仲良くなりました。

 1年後に帰国して、その後離婚して、私の感覚では、離婚してすぐに東北大への就職が決まりました。

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