作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は能登半島地震で考えた、地震大国・日本で災害時に為政者がすべきことについて。
* * *
お正月は北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館)を読んでいた。
この本には、古墳時代から阪神・淡路大震災までの日本の災害史が紡がれている。いつ災害が起きたかという記録ではなく、災害が起きたとき為政者は何をしたのか、人々は何を語ったのか、この国はどのように復興してきたのかをたどる天災復興史だ。
私たちは世界有数の地震大国に暮らしている。山は爆発し、地は揺れ、津波で土地がのみ込まれる。天災そして復興、天災そして復興、天災そして復興、その繰り返しが日本史だといってもいい。『日本災害史』は東日本大震災後に友人に勧められ購入したのだが、この国に暮らす私たちが繰り返し読むべき一冊だろう。
そして改めて実感するのだ。2024年のこの国の為政者は、日本災害史上、かなりダメなほうに入るのではないか。
たとえば今からちょうど170年前、1854年12月23日の安政東海地震のことだ。
黒船来航の翌年に起きた安政東海地震はマグニチュード8クラス・最大震度7(推定)の巨大地震で、その後に襲った津波は外交の舞台だった下田港をのみ込み(停泊していたロシア船が壊れるほどの勢いで)、下田の町は壊滅的な被害を受けた。
驚くのは、その後の支援である。津波が下田港を襲ったのは朝8時〜10時頃だったといわれるが、その日のうちに「お救い小屋」(避難所)が設置され、炊き出しが行われている。翌日には被災者の情報調査が行われ、頼れる者がいない人々が「お救い小屋」に入ったという。さらに地震から6日後には、幕府から米1500石と金2000両が届けられ、さらにその7日後には生活困窮者に対し金銭が与えられた。
なにそれ……である。無線もないのに、電気もないのに、ヘリコプターもないのに、自衛隊もいないのに、だいたいロシア船が壊れるくらいの大津波なのに、なんでそんなに早く動けるのよ……と思うが、江戸時代には被災直後に何をすべきかというマニュアルが整えられていたのだ。避難所の名前が「お救い小屋」というのもいい。そこでは炊き出しが行われ、お握りや粥などが配られた。