越年闘争の末、年俸アップをかち取った直後、青天の霹靂とも言うべき電撃トレードで放出されたのが、中日時代の田尾安志だ。

 84年、田尾は4年連続3割となる打率.310と3年連続リーグ最多安打をマークしたが、4年連続3割の評価で球団側と折り合わず、2度目の越年。12球団で唯一の未更改だった翌85年1月20日、ようやく20パーセントアップの年俸4800万円でサインした。

 ところが、わずか4日後の1月24日、田尾は杉本正、大石友好との交換トレードで西武に放出されてしまう。

 田尾は「決まった以上は仕方がない」とトレードを受け入れながらも、「中日に入るとき、大学の監督から『中日の田尾になれ』と激励された言葉を守り、今までやってきた。フロント、監督の考えが絶対で、言いたいことも言えず去っていくのかなという感じです」と無念さを噛みしめた。

 相手が誰であろうと、本音を堂々とぶつける田尾は、契約交渉で揉める一方、選手会長としても、選手専用駐車場の設置やロッカールームの改善など、選手たちの要望を箇条書きにして球団側に突きつけていた。こうした言動が煙たがられ、“チームの顔”の放出劇につながったようだ。

 前出の高木もそうだが、生え抜きの主力で、将来の監督候補でもある選手が、球団との確執が原因でチームを出ていかざるを得なくなるのは、ファンにとっても寂しい限りだ。

 最後は逆の事例を紹介する。交渉の席で、担当者のあくびに怒りを爆発させる騒動を起こしながら、阪神ひと筋19年間の現役生活をまっとうしたのが、関本健太郎(賢太郎)だ。

 2006年、関本は主に2番サードとして132試合出場、打率.301、9本塁打、33打点を記録した。だが、12月5日の第1回交渉で球団側が提示したのは、1000万円アップの4000万円で、関本の希望額とは大きな開きがあった。

 2時間にも及ぶロング交渉の末、保留した関本は「1年間、こっちは命がけでやってきたんで……。年に1回しかない交渉で(担当者の一人に)あくびをされて、それがすごく情けなくて……」と目に涙を浮かべながら、報道陣に訴えた。

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自ら反省の意を表したことで晩年まで活躍