近年はあまり揉めなくなったプロ野球の契約更改だが、かつては、越年交渉でも決着がつかず、キャンプに自費参加したり、年俸調停を申請する事例もあった。そして、年俸をめぐって球団と揉めた選手は、1、2年後にチームを出ていくパターンも多かった(金額はいずれも推定)。
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年俸調停で球団の提示を上回る金額を認められたものの、シーズンオフに戦力外通告を受けたのが、横浜時代の高木豊だ。
1992年、131試合にフル出場し、3年連続の3割(打率.300)をマークした高木は、年俸9500万円から球団初の1億円プレーヤーを目指したが、第1回目の交渉で提示されたのは、思いもよらぬ200万円ダウンだった。
成績が前年より下がったことやチームの不振が理由だった。2回目の交渉で、球団側は少し上積みしたが、高木は「悪くても現状維持。10パーセントアップは当然」と主張し、年明け後の交渉でも決着しなかった。
そして、キャンプ直前の93年1月28日、高木は「調停はいい気持ちがしないが、第三者から見た自分の年俸はいくらなのかと考え、割り切った」と、91年の中日・落合博満以来、日本人選手では2人目となる年俸調停を申請した。
これに対し、球団側は「これ以上の上乗せはあり得ない」と突っぱねたが、2月16日、調停委員会は球団の提示を510万円上回る「年俸9840万円が妥当」という高木寄りの裁定を下した。
「調停をお願いしたときから、どんな金額になっても従おうと思っていた。信じていたとおり、平等な立場で見てくれたと思う。入団して以来、1度も優勝を経験していないが、他のセ5球団はすべて優勝している。チームのみんなと力を合わせ、勝ったら年俸が上がるということを若い選手に教えていきたい」。
決意も新たに高木は同年、打率を.268に下げたものの、3年連続全試合出場をはたした。ところが、シーズン後に待っていたのは、まさかの戦力外通告だった。高木だけではなく、屋鋪要、山崎賢一ら、主力級6選手が解雇。チームの若返り策といわれたが、後に高木自身は年俸調停を行ったことが「解雇の要因になったのは間違いない」と語っている。