人と違うことをやる、の基に好奇心がある。飛鳥の里の訪問も米国でのソフト開発も、好奇心が生んだ。好奇心を実行へ移す、その挑戦こそが自分の信条だ(撮影/狩野喜彦)

 高校に入ってまもなく二輪車の免許を取り、行動範囲が広がった。自宅があった同県金屋町(現・有田川町)は、ミカン畑が広がり、山や川で遊べるいい郷だ。ただ、外部との交流は細く、小中学校時代は世間の「情報」と縁遠かった。でも、小学校高学年のときにテレビが家々へ入り、徐々に外の世界への好奇心が生まれ、その気持ちを「相棒」が満たしてくれる。

 ツーリングは、独りでいく。近隣の山へいけば、西に紀伊水道がみえて「あの向こうは、どこへいくのか」と思い、いつか外国へいこう、と決めていた。

授業を抜け出た日 「いってこい」と言ってくれた先生

 ある日、初めて授業を抜け出て、奈良県へオートバイで向かう。いく前に担任の先生に話すと、「そういう青春をするのだったら、いってこい」と言ってくれた。あちこちを回り、最後にこの丘へきた。夕景は幻想的で、二上山は夕日に染まっている。その光景を独占し、「万葉の里に立った」と思う。

 自宅へ帰り、万葉集を開く。約1300年前に詠まれた作品には恋の歌も多く、胸がときめく。すべて、夢の中のようだ。1300年前と簡単に言うが、人々が繰り返し繰り返しいろいろな生活を重ね、文化を築き、国をつくった。その大きな時間を、丘の上で感じた。

 社会人になって外国へいき、古い町で遺跡などを観て、人々がつくってきた長い歴史に敬意を抱く。遺跡は、1人ではつくれない。会社の経営も、社員、客、取引先と一緒になってよくしていくわけで、結局は人がつくり、そこに歴史を重ねる。それがサステイナブルな経営だ。

 そんな思いを抱かせてくれた耐久高校時代の日々が、垣内永次さんのビジネスパーソン人生の『源流』だ。会社に入って、おかしなことにはっきり意見を言い、新しいことに挑戦する提案をし、米国駐在時に新しい潮流をみて本社に直言した。やらなければいけないことは、素直にやっていけばいい。その感覚も、耐久高校から流れ始めた。

『源流Again』で、飛鳥の里を再訪する前に、耐久高校へいった。きたのは、卒業してから1、2度。でも、様々なことは、忘れない。模擬試験も受けずにオートバイで走り回っていたのは、大学受験からの逃避だった、のだろう。

 それでも、野球部、相撲部、男子バレー部、陸上競技部の主将たちと剣道部の2人と7人で「学校をよくしていこう」という会をつくり、「ますらお会」と名付けた。卒業しても毎年、集まっている。もう50年。耐久高校は、豊かな人脈を築いていく『源流』でもあった。

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