道長は頼通に摂政をゆずった後も大殿として政治の実権を握り、摂政頼通に指示を与え、朝廷の人事を掌握した。藤原実資から皮肉まじりに「帝王のごとし」と評されたのもこの頃である。こうした道長の権力掌握のあり方を、上皇が天皇の父・祖父の立場で政治を主導する院政の先がけとする評価もある。来るべき中世は、道長の時代に用意されていたのである。

 栄華の絶頂を極めた道長であったが、この頃から目と胸の病に苦しめられるようになる。人々は三条天皇の祟りではないかと噂した。寛仁三年(一〇一九)、道長は五十四歳で出家し法成寺の造営を開始。来世へ旅立つための終活に着手した。

 晩年の道長は子どもたちに先立たれ、涙にくれる日が続いた。万寿二年(一〇二五)に小一条院の女御となっていた三女寛子が亡くなり、東宮敦良親王の子親仁(後冷泉天皇)を生んだ六女嬉子も、産後間もなく死去する。二年後、皇太后妍子が亡くなり、道長自身も背中のはれ物に苦しみながら、法成寺の阿弥陀堂で六十二年の生涯を閉じた。

暮らしとモノ班 for promotion
大人のリカちゃん遊び「リカ活」が人気!ついにポージング自由自在なモデルも