医療関係者の講習会で臓器・組織提供時のECMO使用法を実演する。実は実習中ミスがあり、福嶌は講習会後、長文のメールで原因を示し参加者に謝罪した。その誠実さも医療者としての福嶌を表している(撮影/MIKIKO)

 各診療科を回る臨床研修が義務化される前のこと。初年度から第一線で猛烈に働いた。1年で胃潰瘍の手術をし、2年目には胃がん・肺がんを切った。85年に大阪市立小児保健センター心臓血管外科に移ると、小児心臓病治療に従事するようになる。その経験が、和田移植以来久しぶりに福嶌を心臓移植と向き合わせることになった。

「目の前の子どもを助けたいと思って一生懸命オペをして、治療するんです。でも、どうしても助けられない心臓病の子どもたちが何人もいました」

 一部の先天性心疾患は重篤だと治療の術がなかった。何人もの子どもを見送った。ちょうどそのころ、米・ロマリンダ大学の教授、レオナード・ベイリーの講演を聞き、新生児心臓移植を成功させたことを知る。治療不可能な重症心疾患の子どもでも、心臓を丸ごと取り替える移植ならば助けることができる──。

「心臓をつくる夢も思い出しましたが、どう頑張っても半世紀はかかります。その間に目の前で死んでいく子どもたちを見ていられない。いまやるべきは移植だろうと思い定めました」

 奇(く)しくも時期を同じくし、大阪大学に移植実現を目指すチームが立ち上がり、帰局の誘いがあった。大学に戻った福嶌は専門学会で和田移植の検証を進め、レシピエントを登録する機関を立ち上げる。国内で移植を実現する体制整備に注力した。この時期、大阪大学は和田移植以来の心臓移植実施にあと一歩まで踏み込んでいる。日本医師会が「脳死をもって個体死と認める」としたことを受け、大阪大学倫理委員会は90年、心臓・肝臓・腎臓の脳死臓器移植を認可したのだ。ただ、最終的には法制定を待つことに。91年からはロマリンダ大学へ留学、ベイリーの下で約50例の心臓移植手術に携わった。94年に帰国すると、今度は臓器移植法制定に向け奔走する。国会議員のもとを陳情に回り、患者団体が主催するシンポジウムを支えた。

小さな子が助からない法律 医師として耐え難い悔しさ

 法整備は遅々として進まなかった。94年に議員立法で提出された臓器移植法案は2年半にわたり継続審議となりながら廃案。心臓が拍動する脳死者を死とみなすことの反発や、人の死を前提とした医療への忌避感が強かった。再提出され、激論の末に成立を見たのは97年。移植実現のため大阪大学に戻ってから10年がたっていた。

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