移植とともに歩んできた医師生活。支えたのは、「子どもを救う」というその一心だ(撮影/MIKIKO)

 1997年に日本で臓器移植法が成立したが、その後もほぼ一貫して増え続けてきた心臓移植待機者。それが、2022年後半以降、減少に転じている。臓器提供者が増え、新規登録者を上回り始めたのだ。社会を変えた一端は、千里金蘭大学学長・国立循環器病研究センター移植医療部客員部長・福嶌教偉の熱意と活動だ。約200人もの移植やその後のフォローに関わる一方で、患者の命を救うため、国会議員に訴えかけ、法整備を実現させてきた。

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 うだるような暑さに日本中が包まれた8月下旬の週末、神戸市にある総合公園に16家族54人が集まった。子どもたちは歓声をあげて走り回り、飯盒(はんごう)で炊いた飯を食べ、温泉に浸かって夜は公園内の宿泊施設に泊まる、特段珍しくない夏の一コマ。唯一この会が他と違うのは、臓器移植を受けた子どもたちのためのサマーキャンプだったことだ。福嶌教偉(ふくしまのりひで・67)は生活相談に応じ、子どもたちのためのアクティビティを準備して動き回る。「娘がピアスを入れたいと言っていて……」。ある母親がそんな相談をする。何げない一言は、重篤な心臓病を抱えて心臓移植を受けた子が、年相応の悩みを持てるまでになった証しだった。

 福嶌の歩みは日本の心臓移植の歴史そのものと言っていい。心臓移植とは、ほかに治療法がない重症心疾患患者の心臓を脳死者の心臓と入れ替える治療法のこと。従来の内科・外科治療で改善しない患者にとって最後の砦(とりで)だ。日本で脳死患者からの臓器提供を可能にする臓器移植法が成立したのは1997年。以降25年余りで、心臓に限っても800人が移植を受けた。福嶌が移植やその後のフォローに関わった患者は200人ほどに上る。

 国立循環器病研究センター移植医療部医長の渡邉琢也(46)は、2022年まで同部の部長を務めた福嶌のもと、心臓移植待機患者や移植者の診察、術後管理、治療にあたってきた。渡邉は医師としての福嶌をこう言い表す。

「『救いたい』という気持ちを誰よりも強く持った先生です。重症心不全の治療は残念ながらどうしても助けられない人がいる分野で、医療資源や医療費の問題からどこまでやるのかも常に問われます。それでも、福嶌先生は『心臓では死なさない』と、信念と熱意を持って治療にあたっていました。どんなに状態が悪くても諦めることはない。それを引き継ぐのが僕らの役割だと思っています」

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川口穣

川口穣

ノンフィクションライター、AERA記者。著書『防災アプリ特務機関NERV 最強の災害情報インフラをつくったホワイトハッカーの10年』(平凡社)で第21回新潮ドキュメント賞候補。宮城県石巻市の災害公営住宅向け無料情報紙「石巻復興きずな新聞」副編集長も務める。

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