平日も休日も忙しく動き回るのは昔から。87年に大阪大に戻ったころはアパートに帰るのが月1~2回だった。2歳の娘に「また来てね」と言われたことも。それでも家族への思いは忘れたことがない(撮影/MIKIKO)

 そして、移植についての姿勢をこう話す。

「福嶌先生からは、心臓移植には、提供するドナー、心臓をもらうレシピエント、さらに、日本の場合はドナーがまだ少ないから、その心臓を別の人に移植していたら助けられたはずの人がいると考えるように教えられました。僕らが主に接するのはレシピエントで、ドナーの状況は見えづらいけれど、ドナーへの敬意を持ち続けることの大切さはことあるごとに指導を受けていました」

 救うことへの信念とドナーへの敬意。移植医としての福嶌の姿勢は、このふたつに凝縮される。

 医学を志したのは小学6年生のとき。夢は「心臓をつくる」こと。夏休みのさなかに飛び込んできた「和田移植」のニュースがきっかけだった。

 臓器移植法制定のはるか前、68年8月に札幌医科大学の教授・和田寿郎が実施した日本初の心臓移植だ。移植を受けた患者は、一時はマスコミに散歩の様子を披露するほど回復したが、術後83日目に亡くなった。死後、ドナーとレシピエント両方が和田の患者だったこと、レシピエントに移植以外の治療が残されていた可能性、心臓外科医である和田が専門外の脳死判定を行ったことなどあらゆる疑念が噴出し、日本の移植医療は臓器移植法成立まで約30年の停滞を余儀なくされる。

心臓をつくるため医学部へ 臓器移植法制定に奔走

 ただし、レシピエントが回復基調にあった移植初期には和田は「ヒーロー」で、称揚する報道が相次いでいた。一方、ニュースを聞いた福嶌が感じたのは、「移植はあかん」だったという。

「ドナーさんの家族のストレスを思うと、脳死になった人の心臓をあげるのは僕は“なし”だと思った。だから、心臓をつくりたいと考えたんです」

「再生医療」など言葉さえなかったころで、周囲に話すと笑われるばかり。ただ、父親は笑わなかった。「それなら医学部や」という父の言葉で進路を決めた。高校卒業後、1浪して大阪大学医学部に進学。大学4年ごろまでは研究者になるつもりだったというが、卒後に選んだのは外科の臨床医だった。福嶌はこう言って笑う。

「医学部に来たからには臨床で人を助けたくなったんです。大学の同期である妻には、『僕は研究者になるから』と話していました。でも、臨床をやりたいと言いだして心臓外科医になり、ほとんど会えない生活になりました。心臓をつくる研究をしながらゆったり人生を歩むはずやったんだけど」

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