日本ではバブル期から二〇〇〇年代半ばにかけて、「興行ビザ」でフィリピンから来日する女性が多くいた。一般的には歌手やダンサーに出される在留資格だが、実際には来日女性の多くがパブやラウンジで客を接待するホステスとして働いていた。
ソフィアさんは二〇〇四年に日本人男性と結婚し、二人の子を産んだ。しかし、結婚生活は長続きせず、四年後に離婚。いったんフィリピンに帰国し、子どもを両親に預けたあと、単身で再来日して働いたという。
事件のちょうど一年前、二〇一一年四月に島之内へ移り住み、子どもたちを実家から呼び寄せて一緒に暮らすようになった。島之内には同じように「興行ビザ」で来日し、子を育てるフィリピン人女性が多く暮らす。ソフィアさんも夜間、子どもたちを友人に預けて、飲食店で働いた。
このころ、彼女は生活保護の申請のため、大阪市中央区の保健福祉センターを訪れている。それをきっかけに、ケースワーカーが数度にわたって面談や家庭訪問を行った。ソフィアさんは夜間の仕事と子育てを両立するストレスを打ち明け、相談の中で泣き出すこともあったという。
長男はフィリピンにいたころ、じっとしていることが難しい「多動」だと診断されていた。日中、勝手に自宅から出ていってしまい、警察に保護されるというトラブルも二度続いた。