ソフィアさんはその後、フィリピンの親族のもとへ送還されたという。
刑事事件としては、そこまでだ。新聞報道もそこで止まっている。
大阪市の審議会が翌年に出した報告書は、ソフィアさんが無理心中に及んだ背景について「直接的なきっかけは不明な点も多い」としつつ、「長男の幼稚園での、同国籍の保護者との交流が支えになっていたが、小学校に上がって交流がなくなるのが不安材料となった」「孤立した状況で、混乱が極限まで高まっていった」と指摘した。
孤立したシングルマザーの移民家庭で、幼い子どもの命が失われた――。
事件は、ミナミの街に小さくない爪痕を残した。
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少しだけ時間をさかのぼる。
事件の九日前にあたる四月六日、亡くなった息子と母ソフィアさんは、地元の大阪市立南小学校で入学式に臨んでいた。フィリピンから一時的に来日した祖母も一緒だった。ソフィアさんはタブレット端末を掲げて、息子の晴れ姿を写真に収めていたという。
当時、南小の校長だったヤマザキさんは入学式の前日、ソフィアさんが学校を訪ねてきた姿をよく覚えている。
彼女はいろんな学用品を入れた大きな袋を見せながら、「お道具箱には、何がいりますか?」と尋ねてきた。「お道具箱」は日本で育った人なら知っていて当たり前の存在に思えるが、日本に特有の学校文化だ。日本語の読み書きができないソフィアさんにとって、こまごました学用品をそろえることは簡単ではなかっただろう。