日本も世界の90か国とともに、新しく「余剰農産物協定」と呼ばれるこの仕組みに取り込まれ、1955年と翌年の2回、条約に基づく協定を結んだ。
アメリカの一連の対外的な食料政策は各国の飢えを緩和させることができた一方、援助対象国となった国の農業生産力の発展を遅らせたと、アメリカ自身も自覚するほどの問題を残した。
このときから、日本はアメリカの農業地帯選出議員のロビー活動とそのブローカーの餌食になる運命をたどる。そして、その後の日本のコメ単作の農業体制が固まった。
敗戦国の日本は、アメリカのこのような強硬な政策で、確かに、空腹が我慢できる程度にまで回復した。しかし、主食のコメは国産体制を強めたが、流通は厳しい統制下におかれ、市民が自由に購入できない配給制度が続いた。
筆者は子どものころ、配給米では足らないため、母親に連れられて暗くなった道をヤミ米を扱う老夫婦の家に出かけ、古米特有の香り漂う米びつから、持参した木綿製の袋にマスですくうようにコメを流し込んだ母親の姿を覚えている。戦後約80年、アメリカは日本がいまなお有力な食料輸出相手であるとみなし続けている。