アメリカで1951年に成立した「相互安全保障法」という法律は右手に銃、左手に食パンをかざしながら、日本人に対して、ソ連からの脅威を防ぎ、自国の余剰農産物で日本人の飢えをしのぐという、当時の日本の弱みに付け込むものだった。
第2次大戦後、ソ連とアメリカはともに日本とドイツを負かした戦勝国として、次の世界の覇権を争い始めたところであり、同時に戦前のアメリカには小麦やコメ・大豆・食用油その他が文字通り腐るほど余っていた。第2次大戦に備えて、生産力を天井にまで高めていた結果である。
アメリカの肥沃な大地は戦前に大きな土地生産性の上昇を手にし、増える人口と戦争特需を上回る収量をみせていた。農産物価格は低迷し、農村部の経済成長を抑えていた。
そこで、農産物を援助する代わりに、援助した国に対しては、自らの責任で対ソ・対中防衛に当たるよう指示することに成功したのだった。これはアメリカ発のMSA協定と呼ばれ、日本は、まだ国際的地位の低かった、戦後独立を回復した1951年のサンフランシスコ条約を結んだばかりの1954年に締結国となった。
「相互安全保障法」に続き、1954年7月アメリカ議会を通過した「農業貿易開発助成法」は、戦前急増した農業生産力の処理のために、第2次大戦で負かした国(日本やドイツ)、そしてインド・パキスタン、ソ連の共産国化圧力に直面している食料不足で悩むヨーロッパの国々に、現地通貨決済という条件付きで穀物を輸出することに成功した。決済は輸入国の通貨で行ない、輸入国政府が民間に売り渡した金額を積み立て、アメリカからの戦略物資を現地通貨で輸入する資金に充てる、という仕組みだった。