大学を出て「何者でもない」ときに働いた歌舞伎町のバー「漆黒」のマスターとママと再会。小野がエッセイに書いた「漆黒」の文章を読み、幾人もの若者が店を訪ねてきたという(撮影/岡田晃奈)

 子どもの頃は妄想力が豊かな一方で、まったく友達がいなかった。保育園に馴染(なじ)めず2回退園し、その後、幼稚園では演劇の脚本を読み「こんな役は演じたくない」とケチをつけた記憶がある。心配した母が、小野の誕生日に幼稚園の同級生を家に呼んだときは、傘で陣地を作り「ここから先に入ってくるな」と友達を追い返した。

「その頃、私には心の中にイマジナリーフレンドがいて、その子と話すほうが楽しかったんです」

 そんな幼い小野の世話を、仕事で毎日深夜まで働く母の代わりにしたのが、母の実家の岡山から東京に単身出てきて同居を始めた祖母だった。私立桐朋学園小学校に進学すると、学校からの帰り道にある本屋で、毎日1冊、祖母に本やマンガを買ってもらうのが日課になった。

 読書に関しては「異常なほどの早熟」だった。小野の母は村上龍のエッセイを編集しており、母の本棚に村上の本がぎっしり詰まっていた。米軍基地のある東京・福生で若者がドラッグやセックスに溺れる日々を描いた村上のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』を読んだのは小学2年生のときだ。山田詠美も好きで、『風葬の教室』といういじめを受けている女の子の話を読んでシンパシーを覚えた。

 小野もいじめられっ子だった。小学校では男子に毎日「ブス」と呼ばれ、担任にも嫌われた。思い出すと今でも体が強張(こわば)る。

「恐らく今でいう発達障害だったと思います。算数の授業で座ってられず、計算ドリルに絵を描いたりしてた。先生からは嫌われるか、すごく庇(かば)ってもらえるかの両極端でしたね」

ストレスから自傷行為も 高校は哲学書を読みあさる

 母の勧めで中学受験をし、私立成蹊中学に入学する。中学2年と3年の担任を務め、現在も同校に勤務するのが久保田善丈(57)だ。大学院で学び、30歳で教員になった久保田にとって、小野は初めて担任する学年の特に印象深い生徒だった。

「小野さんは一言でいうと、たいへんめんどくさい生徒でした。でも、当時から突出した才能の持ち主であることはすぐわかりました。作文を書けばすごい文章だし、絵もとても上手かった。コミュ障なのになぜか体育祭の応援団長に立候補して、周囲の心配をよそにきっちりまとめたり。先生も周りの生徒も小野をへんてこな奴、と思っていたけれど、全員が『彼女には特別な才能がある』と感じていました」

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