
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2023年10月16日号では、前号に引き続き丸紅の國分文也会長が登場し、國分さんの「源流」である祖父宅があった世田谷区代田などを訪れた。
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東京都区部の西に両親が購入した家で、父はどこかに勤めることもなく、絵を描き、詩をつくっていた。本棚には、様々な本が並んでいた。母は中学校で音楽の教師をしながら、自宅でも音楽大学を目指す若者に楽理を教えていた。好きな音楽を、いつも家の中に流してもいた。
そんな姿をみて、それぞれやりたいことをして生きている、と思う。両親は、息子にも好きなようにさせた。「道は、自分で選べ。ただし、その結果は自分で受け止めなさい」。口には出さないが、そう語っているようだった。自然、「自由な発想」で道を選ぶようになる。
ただ、自宅に両親の多様な知人がやってきて、会話や議論が続く。そのなかで息苦しさも感じて「居場所」がなくなると、電車に乗って10分足らず、世田谷区代田にあった祖父母の家へ「避難」した。祖父母は外国で暮らしたこともあり、祖父が用意した朝食はオートミール、パンにレバーペースト、オイルサーディンなどで、家に「海外の匂い」がしていた。
企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。
國分文也さんがビジネスパーソンとしての『源流』と振り返る祖父母宅の「海外の匂い」が「自由な発想」を膨らませて、事業家への道を拓いた。ことし6月、祖父宅があった代田を、連載の企画で一緒に訪ねた。
小さいころに何度も陸橋から見下ろした電車
小雨が残る朝、京王電鉄井の頭線の新代田駅前を通る環状7号線の脇に立つ。「環7は東京オリンピックへ向けて拡張される前で、舗装もされてなく、ほこりが立っていた気がする。当時の駅名は代田二丁目で、横丁に入る角は文房具屋だった。いやあ、僕の原風景だ」。そう言いながら、西へ線路わきの道を入ると、懐かしい陸橋がある。
1952年10月、祖父母の家にまだ同居していた両親の間に生まれた。小さいころ、線路の上にかかる陸橋から下を通る電車を、何度も何度もみていた。ここへくるのは、83年にニューヨークへ赴任する前に挨拶にきて以来40年ぶりになる。