米国で石油製品の先物取引の会社をつくり、わくわくして過ごした日々のなかから、たくさんの思い出と一つの教訓が残った(写真:本人提供)

 両親が自宅を持った後、小学校時代は週末の授業が終わると1人できて、泊まっていく。祖母は家事で夜遅くまで起きていたし、自分もテレビで米国のドラマを観て夜更かしをした。祖父は早寝早起きで、朝5時に朝食の用意を始める。オートミールは、子どもに美味しさが分からなかったが、祖父からベトナムやインドネシアで暮らした話を聞くのが、楽しみだった。

 祖父母は、いまの自分よりも少し若かった。でも、包容力があった。最近、年齢を重ねるとせっかちになり、いろいろことがきちんといかないと、気持ちが悪い。祖父母は、孫と体験や知識を共有してくれた。思い出して「自分も同じことが孫にできないといけないな」と頷く。

 陸橋から祖父母が暮らしたところへきたが、別の人が家を構えているので、黙って通り過ぎる。そのまま、まだ同居していた幼稚園時代に、子ども用自転車でいった羽根木公園へ着く。

 当時は、置いてあった土管の中で遊んだが、すっかり変わっている。公園にはプレーパークや野球のグラウンド、テニスコート、図書館、茶室などが揃っている。小学校時代は野球少年で、ここへくれば年上の人たちがやっていたので、入れてもらい、日暮れまで白球を追う。そのころから、年長者と自然に波長を合わせることができた。

自由とともに責任を生徒たちに求めた中学・高校の校風

 この体験は大きい。入社後、石油類の取引をする部署で、しばらく後輩が配属されてこないで補助的な仕事が続くなか、取引を一人前にやらせてくれた先輩が異動してきた。波長はぴったり。おかげで実績が出せ、ニューヨーク勤務に選ばれた。

 自由な発想をさらに広げたのは、中学校から高校まで6年間を過ごした東京都港区の私立麻布学園の「自由で自己責任も伴う」という校風だろう。『源流Again』では、代田から麻布の街へ向かった。

 大使館が多い静かな街にある学園の前へくると、私服姿の生徒たちが校門から入っていく。制服もなく、部活も自分たちで自主運営。伝統は、きちんと引き継がれているようだ。

 高校時代に学園紛争の波が及び、激しい要求をする生徒たちを機動隊が排除した。学校へいく気になれず、半年以上もいかなかった。代わりに麻布の街で似た状況の面々が集まるところへいき、六本木界隈へも出かけた。『源流』からの流れが、将来へ向かって、ちょっと漂流した時期だったのだろう。

 慶大経済学部を卒業し、1975年4月に丸紅に入社。エネルギー本部に配属され、2年目に石油類を売買する花形のトレーダーになった。先輩たちが出社するのは朝9時半ごろ。それより早くいき、海外拠点から届いたテレックスからいい情報を抜いて、担当の石油会社へ持っていく。そんな「自由な発想」に多くの先輩が「生意気だ」と怒ったが、取引を拡大する。「生意気かどうかよりも結果」という企業文化で、83年暮れ、ニューヨークへ赴いた。

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