正岡子規の自画像。こちらもソッポを向いている

(略)もっとも、そのころになると、ぼくも少しはアタマが働くようになってきて、この人がソッポを向いているのは、別に奇をてらっているんじゃない、この人の生き方の一つの表現なんだろうと思うようになった。

「ソッポを向く」ことは「よもだ」に通じるものではあるが、「よもだ」という言葉は一筋縄ではいかない複雑な意味を内包している。天野さんは、「よもだ」という言葉について、別の文献で以下のように分析しておられる。

標準語うのはとてもむずかしい、乱暴承知ってしまうなら反骨精神をおとぼけのオブラートでつつんだような気質ということになるだろうか

 そうなのだ。まさにこれが「よもだ」の真髄というヤツだ。

「よもだ」は、単純に短所というわけではなく、人とは違った視点を持ったり、人が気づかないところに目がいったりする長所もある。なにクソ、迎合してたまるか。やると決めたことはやるのだ、という不屈の精神も含んでいる。

 普通の社会生活においては面倒くさい性格だと思われるが、新しいことを切り開くには必要な資質ともいえる。そういう意味では、子規はかなりの「よもだ」であった。

 修辞を捻くり回す旧守派を陳腐と断じ、西洋画からヒントを得た「写生」という技法を提唱する。俳句のみならず、短歌や文章の革新運動を進める。批判されても微動だにもせず、倍返しの熱量で議論を戦わせる。

 とはいえ、そこには常にほのぼのとしたユーモアがあり、愛さずにはいられない人間味で、周りの人々を魅了する。

 若くして罹患した死病(結核菌による脊椎カリエス)の床には、仲間や弟子がいた。伝染する病にもかかわらず、子規の病床は子規を慰めようと、金魚玉を携えてくる者、扇風機のようなものを持ってくる者など引きも切らずに誰かがいた。「よもだ」の子規を、誰もが愛していた。

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