城主・清水宗治
『萩藩閥閲録』に所収された清水家の由緒書によると、備中高松城はもともと石川氏の居城で、清水氏は幸山(岡山県総社市)を居城として石川氏の麾下にあったとされる。実際に、石川氏が備中国守護代兼備中国惣社(吉備津神社)社務代を務めていた応永三十三年(一四二六)、造営上棟祝の疋馬の三番に清水修理助と清水勘解由左衛門の馬がみられる。
また、祭礼の桟敷配置において、清水氏は国衙在庁官人を出自とすると推定される列の末席に位置しており、清水氏は室町期以降、石川氏の麾下にあったものの、その出自は国衙在庁官人で、石川氏の譜代家臣ではなかったと考えられる。延徳三年(一四九一)の細川勝久(備中国守護)と庄元資(備中国守護代)との対立の際に、石川源三が守護方、清水右京助が反守護方として活動していることも、右記推論の微証となろう。
その後、石川氏は天文二十二年(一五五三)頃から毛利氏への従属を強めていったが、その時期の同時代史料をみると、石川氏の居城として幸山が確認される一方で、高松城の存在は確認できず、幸山が清水氏の居城だったとする由緒の信憑性は高くない。