数多くの城攻めで功績を残した豊臣秀吉が得意とした水攻め。なかでも、「日本三大水攻め」の一つとして知られるのが、備中高松城の戦いだ。その舞台となった備中高松城はどのような立地、構造だったのか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の天下人の攻城戦を解説した、朝日新書『天下人の攻城戦 15の城攻めに見る信長・秀吉・家康の智略』(第八章 著:光成準治)から一部を抜粋、再編集して紹介する。
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備中高松城は岡山県岡山市北区高松に所在する。この地域は江戸期には中島村に属していた。城域は足守川左岸に広がる沖積平野に立地する。この平野の北側から北東部にかけては標高二〇〇~三〇〇メートルの吉備高原、北北西から南南東に縦断する足守川を挟んで南西側にも標高二〇〇メートル程度の丘陵が広がっている。古代には高梁川の分流がこの平野を横切って「吉備の津」に注いでいた。備中高松城が所在する微高地も北西から南東方向に向いて弓なりに形成されており、周辺部の水田との高低差から、この微高地の両側に古代には河道が存在していたと考えられる(岡山市教育委員会文化課編:二〇〇〇)。
また、備中高松城の戦い当時の山陽道がこの平野の南部を通過していたほか、備中松山(岡山県高梁市)へ至る街道も高松から分岐しており、この地域は交通・交易上の要衝であった。さらに、江戸期の検地による高松付近の村の石高を比較すると、高松村が最も高く、戦国期においてもこの地域が農業生産上の重要地であったと推定されている(岡山市教育委員会・岡山市遺跡調査団編:一九七六)。