ところが、天正二年(一五七四)、備中松山を本拠とする三村元親が毛利氏から離反すると、妻が元親姉妹であったため石川久式も毛利氏から離反した。一方で、清水宗治は天正二年閏十一月一日付で小早川隆景(毛利元就三男)から毛利氏への荷担を謝し今後決して見放さないことを約した書状を受け取っており(「岡山県立博物館所蔵文書」)、石川氏から離れて毛利方に留まっている。結局、石川氏は毛利勢の攻撃によって天正三年(一五七五)に滅亡した。石川氏滅亡後、幸山城は毛利氏の拠点として機能しており、清水宗治の居城になったことは確認できない。
一方、宗治は天正七年(一五七九)、吉備津神社に対する高松郷の役負担(段銭の納付など)を統括しており(「吉備津神社文書」)、遅くともこの時期までには高松城主となっている。また、この地域の領主層に対する毛利氏からの命令は宗治を通じて伝えられており、周辺領主層を統括する役割も担うようになっている。