十七日夜、情報源は不明だが、加納より沖田総司が近藤の妾宅に潜んでいるとの情報が御陵衛士のもとにもたらされた。これによって阿部は十八日未明、内海と他国へ潜伏後に合流した佐原太郎を連れ、妾宅を急襲する。しかし、妾宅には1人の女が残っていただけで、すでに伏見へ出立していた沖田の姿はなかった。病身の沖田は、伏見に自分の受け入れ先が用意されるのを待っていたのだろう。

 仕方なく阿部たちは二本松の薩摩藩邸へ行き、次いで午後2時頃に知人宅で昼食の世話になり、小遣いをもらった。そして寺町の武具店へ行き、籠手と鉢巻を買っていると、そこに少数の護衛の隊士を従えた馬上の近藤が通り過ぎた。

 公用のため二条城を訪れていた近藤は、伏見街道を伏見奉行所へ戻る途中であり、阿部らは近藤を待ち伏せするため、間道を伏見の薩摩藩邸へと急行する。そこで2挺の小銃と槍を調達すると丹波橋筋から伏見街道へ出て、阿部は佐原と富山とともに付近の空き家に潜み、同行した篠原と加納は道端に身を隠した。

 やがて近藤の姿が見えると、逸った富山が小銃を撃ってしまう。これが近藤の右肩に命中すると、阿部は小銃を棄てて佐原とともに突進したが、近藤は態勢を立て直す。午後4時頃のことである。現場を通りかかった人物によると、阿部も発砲したようで銃声は2発あり、近藤は2、300m先で落馬したものの、追走した隊士の補助で乗馬し、ふたたび馬を走らせたという。

 篠原と加納は銃声とともに逃げ出してしまい、阿部らが斬った隊士と馬丁の遺体が現場に残されていた。

 近藤受傷の報が大坂に届くと、二十日には徳川慶喜が使者を派遣して近藤を見舞い、松平容保からは二十両の見舞金が贈られた。

 その日のうちに近藤は沖田とともに駕籠で大坂へ下り、そこで鳥羽・伏見の戦いの敗報を聞くのだった。

御陵衛士は、元治元年10月に伊東とともに入隊した者が多かったが、上洛以前からの近藤・土方らの同志である藤堂も含まれ、油小路で落命することになった

○監修・文/菊地明(きくち・あきら) 1951年東京都生まれ。幕末史研究家。日本大学芸術学部卒業。主な著書に『新選組 粛清の組織論』(文春新書)、『新選組全史(上・中・下)』(新人物往来社)、『新選組 謎とき88話』(PHP研究所)、『土方歳三日記(上・下巻)』(ちくま学芸文庫)ほか。

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から