新選組は伊東の遺体を油小路通と七条通が交差する辻に移動。駆け付けた御陵衛士と戦闘を繰り広げた
この記事の写真をすべて見る
油小路通は、京を南北に貫く幹線道路の1つ。武家屋敷が並び、江戸時代には伏見に至る道としても賑わった(写真提供/国立国会図書館)

 幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。鉄の結束を誇る組織として名を馳せたが、その一方で規律を乱す不良隊士や不満分子は容赦なく粛清していった。その舞台裏を追う。

【やっぱりアイツが最強だった】新選組最強ランキング「ベスト10」

 慶応三年(1867)十一月十八日夜、油小路通で伊東甲子太郎を殺害した新選組は、北上した七条通との辻に遺体を運んだ。そして、隊の馬丁(馬の世話などをする係)を町役人に仕立てると、御陵衛士屯所の月真院に走らせた。伊東が足を負傷したので、迎えにくるようにと伝えるためだった。遺体を囮として、御陵衛士を襲撃する計画であり、辻の南と西に17人の隊士と、ほぼ同数の照明役の隊士を待機させていた。

 このとき月真院にいた御陵衛士は、三木三郎・篠原泰之進・加納鷲雄・富山弥兵衛・藤堂平助・服部武雄・毛内有之助、それに土佐陸援隊に転じていた橋本皆助の8人。彼らは駕籠を用意すると賄方の武兵衛とともに七条通を急いだ。

 現場では藤堂が駕籠に遺体を収容し、駕籠の垂を引き下ろそうとしたとき、抜刀した新選組隊士が闇から現れ、右の背中から脇腹にかけて斬り付けた。振り向いた藤堂はさらに顔面を斬られ、息絶えた。武兵衛が目撃した藤堂の最期である。

 藤堂が襲われるのと同時に合図の銃声が響いて乱戦となり、御陵衛士も抵抗したものの服部と毛内のほかは現場から逃走した。鎖帷子を着ていた新選組屈指の遣い手・服部は、二刀流で激しく応戦したが、刀が折れたところを攻撃されて死亡。毛内は腹部への一撃が致命傷となったようだが、腕先や脚部に多数の刀傷があったとの記録がある。

 一方、危地を脱した5人のうち、橋本は陸援隊に戻り、4人は事件時に不在だった阿部十郎と内海次郎とともに、伏見の薩摩藩邸で潜居した。また、新選組は十二月九日に王政復古が発令されると、十六日より伏見奉行所へ転陣することとなる。

次のページ
「沖田が近藤の妾宅にいる」との情報に…