――そういう仕事をしているときに、内閣府食品安全委員会の委員になった。
はい、決まるまで黙っていたら学長が驚き、また学内の規則にも国の行政機関の内部に設置される八条委員会(国家行政組織法第8条に基づく委員会のこと)の委員になることが想定されておらず、就任できそうにありませんでした。母校を卒業した官僚たちが学長にご説明とお願いをして、なんとか私の就任を認めてもらった。
任期は3年で、再任されて6年務めました。その途中で長崎大の任期5年が切れた。そうしたら学長が代わって、「長崎に戻って来い」と言われたんです。私、委員は非常勤でしたけど、緊急時には2時間以内に招集って決まっているので、長崎に戻ったらその義務を果たせない。それを説明しても、理解してもらえませんでした。それで、どちらを選ぶかとなって、結局長崎大を辞めました。
そうしたら長崎大の理事をされていた先生がすごく配慮してくださって、その先生から東京理科大につながりができて5年任期の教授になりました。この任期が切れたのが2023年3月です。私は東京薬科大学や広島大学歯学部では客員教授を続けています。慶応大学医学部では食品安全やリスクコミュニケーションについて非常勤講師を続けていて、実は私の研究費は慶応に入れています。
■ 興味のあることはちゃんとやって 研究者であり続けたい
――どういうことですか?
順天堂大時代から国の研究費を取っていましたけど、長崎大に移ったときに研究費を移管しようとしたら長崎大に入れさせてもらえなかったんです。仕方がないので、そのときは順天堂大に非常勤講師の名前をもらって研究費を置かせてもらった。そのあと、また研究費を取ったときは慶応で非常勤をしていたので、慶応に話して研究費を慶応に入れた。理科大のときは理科大に入れていましたが、退職してからはまた慶応です。
――教員が研究費を取ったら大学は喜ぶはずなのに、長崎大の対応は何とも解せないですね。そんな状況でも研究を続けたのはどうしてですか?
やっぱり興味があることはちゃんとやっていきたいじゃないですか。研究者であり続けたいということは、ずっと思っていました。
食の安全をどう伝えていくのか、というのは結構難しい命題です。これは、リスクに関するコミュニケーションです。リスクコミュニケーションって、何についても必要で、当然、分野がバラバラになっちゃう。私は防災についてはほとんど研究していませんが、感染症とか、原子力とか、食品とか、いろいろやっています。そうすると、大学の先生からは論文の分野が多岐にわたりすぎると批判されてしまうんです。