「狩人」の人生に悔いはない(写真:本人提供)
「狩人」の人生に悔いはない(写真:本人提供)

 時差の関係で夜中に電話で起こされる。「明日、インドネシアへ飛べ」のひと言を聞き、動き出す。いわば化学プラント輸出第二部の藤木室ヒューストン分室員、と言えた。でも、「地球を股にかけてプロジェクトを追っかけている」との実感に、何の文句もない。

 ヒューストンの後、ワシントンの世界銀行へ2年余り出向した。次号で詳しく触れるが、ここで「三井物産で初めて」と思う女性に仕える経験をした。95年5月に帰国し、プロジェクト開発部のASEAN担当マネジャーとなる。いよいよ「狩猟」を仕切るプロジェクトマネジャーだ。3年後、ロシア担当へ替わった。さらに40歳で課長級の主席となり、ロシア東端サハリンのLNG開発に関わる。このとき、ロンドンへ赴任していた藤木さんが帰国してサハリン開発部長、直属の上司となる。

 20世紀は終わったが、「飲ミュニケーション」は、本格化する。毎晩のように、仕事が終わると部の面々と食事に出た後、必ず寄る場所があった。藤木さんが開拓した銀座6丁目のカラオケバー「北洋」だ。当時の部下が、よく覚えている。

「安永さんは歌うとき以外は、ひたすら仕事の話をしていた。熱い思いを口にして、誰かの言うことが間違っていると思うと『違う』と指摘した。誰が相手でも同じ。でも、柔らかく包み込み、交渉でもそうだった」

 歌は、自信がある。GLAYやポルノグラフィティなどの曲を、高い声で歌った。下手な部下がいると、1番が終わったところでカラオケを切って交代を促す。後が続かなければ、自分が曲を入れてしまう。「安永さんの1番しばり」と呼ばれた。藤木さんはカウンター隅の「藤木シート」と呼んだ席で、にこにこ聴いている。『源流』は、静かに流れを続けていた。

■商社勤務の伏線か 子ども心に響いた父の中国時代の話

 1960年12月、愛媛県菊間町(現・今治市)に生まれる。父母と姉、兄、妹の6人家族。父は、戦前は損害保険会社に勤め、中国に駐在した。その話を子どものころに聞いたことが、会社で台湾留学の話に飛びついた一因だ。

 大学進学で東京へいくまで、瀬戸内の海をみて育つ。「都会へ出たい」との思いが、生まれていく。地元の小学校から松山市のカトリック系の中高一貫の愛光学園へ進み、列車で通学する。待ち時間を入れて往復4時間もかかる。でも、車窓から、海と山の美しい風景を眺めることができた。大切な財産だ。

 東大の理科I類に入り、都市工学科を選ぶ。先輩の就職先をみると、あらゆる分野へいっていた。幅広い進路から、海外へいくチャンスの多い総合商社を選ぶ。83年4月に入社し、コンピューターシステムを全社に構築するチームに入った。大学でコンピューター言語を勉強していたのを買われて2年間、システムをつくり、西豪州のLNG案件などの収益性を分析する。

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