
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA 2023年7月17日号の記事を紹介する。
* * *
仕事を終えて夜遅くまで、先輩や後輩と、飲んで歌い議論する。戦後の経済成長とともに根付いた20世紀型の「飲ミュニケーション」が、自分にとっても熱い思いの伝承の場だった。始まりは、入社が9年先輩の藤木幸久さんとの出会いだ。
入社5年目の1987年5月に化学プラント輸出第二部へ異動し、インドネシアのスマトラ島に石油精製化学のプラントをつくるプロジェクトに、参加した。ここで、商社マンは世界の「猟場」で事業機会を探す狩人だ、と染み込ませてくれた。
藤木さんは「三井物産でなければできない仕事をやる」との自負が、強烈だった。他の商社と連携するときも、自社が仕切り役でなければ、やらない。苦労は多いが、収益も醍醐味も、仕切り役でなければ十分に手にできない。そして、「獲物がいないときは、仕事はしない」と、言い切っていた。夜は飲みに出ても、あとは寝食を忘れて仕事をする。「ともかくプラントの現場へいき、新しい仕事をみつけろ」が口癖だった。
「飲ミュニケーション」の間も「獲物がいる間は、帰ってくるな」と繰り返す。だから、出張用の航空券は割安のジャカルタで東京への往復を買い、常に机の引き出しにジャカルタ行きの復路券を入れ、「明日いけ」の指示に備えていた。
そんな藤木さんと重ねた日々が、安永竜夫さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。
29歳だった90年3月から3年1カ月、米テキサス州のヒューストン支店で勤務した。初めての海外勤務だ。ヒューストンは20世紀に入って油田がみつかって、米国の石油関連産業が発展した街。先端医療産業や米航空宇宙局の宇宙センターもあり、大企業の本社がニューヨークに次いで多いとされ、「猟場」としてわくわくする地だ。
■米国に駐在中東京から深夜電話 すぐにスマトラへ
日本にいたときよりも、海外出張が多かった。中南米諸国へもいったが、飛行機の乗り継ぎで1日半かけてインドネシアへも飛んだ。スマトラ島のプラントを、仕上げるためだ。出張の指示は、支店長からではない。東京の藤木さんからだった。